第3話 ベルの心

 どしんっ、と大きな振動が伝わってゆっくりと剣を下ろしたリリーは、静寂の中に横たわる王子の頬にそっと触れた。


 柔らかい獣の毛が指先に絡んで優しくくすぐる。おいたわしい……と囁いた声は、決して誰にも届かない。


 彼女が立ち上がると、やっと室外が騒がしくなった。


 手短な断りと共に開けられた扉の向こうには、顔を青くした城の従者たちと、リリーの無事に胸を撫で下ろすセヴァが立っている。


「お嬢様……っご無事だと信じておりました!」


 歓喜のあまり叫んだセヴァが慌てて口を噤む。床に倒れている野獣の王子と、凛と背筋を伸ばして剣を下ろしているリリーを見ればこの部屋で何があったかは一目瞭然であった。


「まさか……信じられない……!」


 誰かがそう呟いたのを皮切りに、皆が驚嘆の声を上げた。


 王子が呪いにかけられてから十七年間、魔法をなしにして彼を押さえられた者は一人として居なかった。成長してからは特に、屈強な騎士でさえ攻撃を受けるだけで精一杯であるのに、細くしなやかなこの娘が一体どうやって渡り合ったのか、誰一人としてまったく想像がつかない。


 王と王妃はその夜、だれも手に負えなかった王子をリリーが抑えた、という報告を聞いて、疲労困憊であろうリリーを労わりたい気持ちと、是非本人の口から詳細を聞きたい気持ちとで板挟みになり、まったく落ち着けないでいた。


 そわそわと動き続ける体をやっとベッドの中に収めることが出来たのは、リリーからの言伝ことづてで、翌日改めて報告に来ると聞いてからである。


 何か、今までとは違うことが起こり始めている。


 仲のいい両陛下はその日、フィリップ王子が産まれてから初めて、心安らかな満月の夜を過ごしたのであった。


***


 さて翌日、日の出と共に塔から出て来た王子は、夢見心地な足取りで自室へと戻った。


 うっとりと自身の首の痣を撫ぜる。疲労の残る体をベッドへ横たえて思い出すのは、間近で見たリリーの成長した姿。姿絵の中の彼女を眺めるだけの日々に、色鮮やかな喜びが満ちた瞬間であった。


 王子が部屋に引きこもって、鏡の前で青黒い痣を何度もなぞっては微笑んでいる頃。


 リリーも王城へと参上し、客間にて両陛下へ詳細報告を行っていた。


 彼女は簡潔に、己が見たものと王子の様子、そしてどのように彼を倒したかを語った。それが終わると、やはり今まで通り姿を見せない王子をおもんぱかり、早めに城をあとにした。


 その夜の一騎打ちは、誰もが知る名勝負として瞬く間に貴族たちの噂の種となったが――他人事のようにその一幕を語るのは、なにも下世話な部外者に限ったことではない。


「しかしまぁ、本当に力づくで屈伏させるだなんてねぇ……」


 ベル持参のスズランを指で愛でていたソニアが、ぽつりと零す。


「リリーらしいと言えば、らしいと思うけどね」

「らしすぎて困りますわよ! そんなことじゃあ、到底恋には発展しませんことよ」

「そ・こ・は! 私がなんとかするもの」


 テーブルを叩いて身を乗り出したベルへ、ソニアは呆れたように瞳を回した。


「無理よ。殿下の様子を見ていれば分かるでしょう? 普段はあんなに堂々としてるのに、少しでもリリーの話題が出るとしおらしいったらありゃしない。彼が遠くから見つめるのはリリーだけ、あの方のお心を揺らせるのもリリーだけ。ベル、本当は分かってるんでしょう?」

「……嫌よ、私にだって、自分の気持ちがあるもの。せめてしっかり諦められるまでは、できることをやるわ」

「あら、案外情熱的ですこと」


 フィンガル家のサロンにて、花に囲まれる二人の淑女は対照的だった。優雅なソニアの向かいに座るベルは、頑なな態度を崩さない。「食べ過ぎて最近コルセットがきつい」と言っていたのはどの口か、次から次へとクッキーが吸い込まれていく。


「……それで、リリーは?」

「今日は来ませんわよ。森へ出かけたらしいの」

「えぇ……? どうしてなの? あの人ってどうしていつもそうやって争ってばかり……」

「血筋……かしらねぇ」


 自分がどれだけ着飾っても学術書を手放せないように、ベルがやや口うるさい彼女の母や姉と同じ振る舞いをしてしまうように、リリーもきっと剣を振るわずにはいられないのだろう。


 彼女はそう思いながら、紅茶に息を吹きかけた。


***


 馬上に跨って厳しく手綱を引いていたリリーは、南方の森を駆け回りながら、父に任されたとある仕事に着手していた。


 周囲をくまなく観察し、時折馬を休ませながら手帳に何かを書き記す。それを何度か繰り返していると、屋敷からの使いが、猛スピードで馬を走らせて来た。


「お嬢様っ、王城からお手紙でございます……!」

「なんだ……速達か? ありがとう」


 息も絶え絶えな使用人から受け取った便箋はとても分厚く重たい。馬に乗ったままはち切れんばかりの封を開けてみると、折り畳まれた紙がリリーの手を滑り落ちて、やがて地面に着いてしまう寸前で止まった。


 調書には、これまで長い時間をかけて調べた王子の呪いについての情報が書き連ねられていた。そして最後に王子の代筆で、理性を失っている時の意識がないことやその間の謝罪、自分を恐れないリリーを見たあの一瞬だけは、意識を取り戻すことが出来たこと、そしてなにより、今までは誰とも会話をする機会がなかったので、少しでも意思疎通が出来たことがとても嬉しかったという旨が、記されていた。


 リリーはその凡そを把握すると、急いで屋敷に引き返した。


 自室に飛び込んで、馬上服もそのままに机へ駆けてインク壺の蓋を開ける。宛先は無論王子である。最初の一瞬は筆が躊躇ったが、伝えたいことはすぐ頭に浮かんだ。


 まずは王子の体調を案ずる文と、手荒な真似をしたことへの謝罪。あの状態でも自分を覚えていてくれて嬉しかったことなどを、なるべく短く纏めて記す。


 手紙はすぐに送らせた。王子と文章のやり取りは初めてに等しく、返事が来るかはやや不安であったが、しかし数日後、封蝋に王家の家紋と私的な手紙の証である“F”が捺された封筒が、バラモアの屋敷に届いた。



『お返事をありがとう。首の具合は大丈夫だよ、気にしないで。

 それから、もしも嫌じゃなければ、次の満月の夜も君に来てほしい』



 とても短い文章ではあったが、それでもリリーを戸惑わせるには十分だった。


 順当に考えれば次の満月はベルの番だ。それは両陛下も知っているであろうに、まさか彼らが許可を出したのだろうか。それともこれは王子からの内々の誘いで、まだ誰にも伝えていないのだろうか。


 リリーは一人掛けのソファーに体を投げ出し、額に手を当てた。


 もう片方の手から便箋が滑り落ちると、掃除のために居合わせていたメイドが慌てて、まだ少し湿っている床からそれを拾い上げる。


 偶然にも中を見てしまった彼女は、その場で黄色い悲鳴を上げた。


「お嬢様! 王子様からの直接のお誘いなんて、と

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