第2話 いざ、お手合せ
国王と話を終えたソニアは、ベルと共に休憩室へと向かった。
そこでは、椅子の上にゆったりと腰を下ろしたリリーが、気を抜いた様子で肘置きに肘をついて絵画を眺めている。ソニアは彼女の向かいのソファーに座ると、使用人に紅茶を用意させて、早々に人払いした。
「あの夜の再来ですわよ、リリー」
その声に、真面目腐ったリリーの顔が向けられる。
「なんだ、希望が通ったのか」
「ええ。だけれど、今回は双方の気持ちを汲んで、夜の逢瀬は無くてもいいんだそうよ。自由に愛を育んでほしいって」
「陛下は、今までが無理矢理過ぎたんだとも仰ってたわ」
「でもねぇ、その通りですわ。確かに恋は電撃的なものだけれど、時にはスローダンスのように、甘くゆっくりと楽しまないと……」
「何を言ってるのか分からない」
ロマンスの世界に飛んでいってしまったソニアをフォローするように、ベルが少し身を乗り出す。
「つ、つまり、無理矢理に男女を会わせたところで、恋なんか生まれないって気づいたんですって。だから今回は私たちのペースで、ゆっくりと愛を育んでみましょう、ということになったのよ。でもその方がいいわ。あんまりにも王族と脈略のない人と婚約しちゃったら、いつか大変な問題が起きちゃうかも」
ややお節介で考えすぎる傾向のあるベルは、この問題に対しても、その性質を遺憾なく発揮しているようだった。
「わたくし、パス」
「え?」
「恋は電撃、愛は湧き続ける泉の如く……わたくし今度こそ真実の愛を見つけましてよ! だから、王子の運命の相手役は二人に譲るわ」
蕩けるような顔で宙を見つめるソニアは、最早どこかへ飛んでいってしまいそうな勢いである。リリーとベルはまた始まったのかと顔を見合わせて、再び作戦会議を始める。
「……じゃあ、どっちからだ?」
「私からがいいわ! あの日のリベンジを……って言いたいところだけど」
ベルが、複雑そうに笑った。
「国王陛下はあなたをご指名しましてよ、リリー」
「え」
不意に、若い娘たちの駆け足な会話に聞き耳を立てていたようなタイミングで扉がノックされた。入ってきたのは王室付きの執事で、三人とも大なり小なり、彼には見覚えがある。
「リリー・バラモア様、フィリップ王太子殿下がお待ちです」
恭しく頭を下げる執事の言葉に、彼女の表情が引き締まった。
いつかはと思っていたが、それがまさか今日とは。
彼女はセヴァが用意した水を飲んで軽く頭を冷やし、立ち上がった。まさか行かぬという選択肢はあるまい。真っ直ぐに前を見つめるその顔には、“華美なドレスを纏った
「セヴァ、剣を」
凛と響くその声には一振の震えもなく、まるで歴戦の騎士のようである。
しかしかえって動揺したのは周囲の方で、物騒な彼女の一言に、ソニアが恐る恐る尋ねた。
「あなた、まさか本当に殿下をその、どうにかするおつもりじゃ……?」
「そ、そうよリリー、あなたまるで……戦場へ向かう殿方のようだわ」
「安心しろ。この剣は刃を潰してある対・王子用の特注品なんだ」
どれだけ突いても肉を裂くことはない。流石に無抵抗でどうにかするのは無理だが、これなら完璧に対処できるに違いない。
自信満々にそう語り刀身を撫でるリリーの剣オタクっぷりに、長年連れ添った幼馴染たちは暫し言葉を失った。
彼女は、セヴァを伴って颯爽と休憩室を出て行った。静かな覇気を
***
城の渡り廊下から塔の中腹へ入り、延々と続くような螺旋の石階段を登っていく。窓から見える明るい月は、先ほどよりも随分と高い位置に上がっていた。
「お嬢様、お召し物のお着替えは?」
「このままでいい」
彼女の返事は簡単だった。
「リリー様。隣室に騎士や魔術師が控えておりますから、どうか護身に徹して下さいませ」
リリーやセヴァ、近衛騎士らを引き連れて先頭を歩く執事に、
「そんな言葉など信じられるか」と内心で吐き捨てた彼女は、塔を上るうちに、徐々に聞こえてきた遠吠えに頭を上げた。
遥かに長い気がしていた冷たい階段も、気付けば終わりはすぐそこだった。
彼女は王子との古い記憶を掘り起こして目を瞑る。
一番最後に彼を見たのは互いにまだ十四歳の頃……垣根越し、遠目に見つけた王子は誰か城の者と話していて、笑顔がとても愛らしかった。
柔らかそうな金糸の髪は、風に流れてさらさらと陽光の輝きを反射させていた。利口そうなスカイブルーの瞳は柔らかく細められ、人懐っこい印象を受けた。その後に一瞬だけ目が合った――普段自分を見る時のあの怯えた瞳とは全く違う、優しい目と。
カチャ、と剣が階段に当たる音で、彼女は再び現実へ目を向けた。
訓練を忘れるな。冷静に、慎重に、だが機敏にいこう。そう何度も自分に言い聞かせる。
塔のてっぺん、月に一度しか使用されない王子の寝室の扉には、魔法による厳重な鍵がかけられていた。中からは物を壊す音や苦しげな呻き声、怒りや悲しみに満ちた痛々しい
「……鍵を開けます」
扉の両脇に控えていた見張りの魔術師が、そう言って扉に呪文を唱えた。間もなくして鍵の回る小さな音が響く。リリーは剣を背後に隠し、扉に手をかけた。
「ご武運を」
閉まる扉に紛れて、そんなセヴァの呟きが聞こえる。
……部屋の中は、酷い有様だった。
壁に掛けられた絵画も天蓋のベッドも鏡も、何もかも引っ掻き回されて傷ついている。壁紙は無惨に剥がれ、ベッドは破られ羽毛が舞い、床には積年の乱心の跡が残る。引き裂かれたカーテンの下半分が窓の手前に溜まっていた。どこを見回しても、必ず暴れ回った痕跡がある。
リリーは無意識に息を潜めていたが、扉の開閉音には彼も気づいたらしかった。振り向いた野獣の顔は、昔に見た時よりも随分と成長して、さらに凶悪になったように見える。
今まで散々暴れ回っていたのか、王子の荒い鼻息が、沈黙の中に響いていた。
怒りに支配された鋭い目が大きく見開かれて、リリーをじっと見つめる。彼女の存在を確かめるような懐疑的な瞳が暗がりの中で怪しく光り、やがて大きく揺れた。
「あ……ぐ、ぐぁああがぁ!!」
自身の姿を隠すように頭を抱えて吼えた彼は、錯乱した様子で彼女に飛びついた。
顔に風がかかり、リリーの髪がふわりと揺れる。王子は彼女の頭のすぐ横に爪を立てていた。扉に長いかぎ爪が食い込み、あの夜と同じように目の前で長い牙が揺れる。
王子は息を荒くしながら、それでも動かない彼女を覗き込んだ。
リリーは努めて呼吸を穏やかに保ちながら、背後に隠した剣を握り締めて、じっと王子を見つめた。何度も野生の獣たちを相手にしてきたからこそ、よく分かった。この獣の中には、まだ微かに理性が残っている。
「フィリップ王子、私です。リリー・バラモアです」
「……リ、リー……」
獰猛な見た目からは想像もつかない、か細く弱々しい声だった。
「……言葉を、話せるのですね? やはり……完全に理性を失っている訳では、ないのですね」
「リ、リー……、来て、くれた……?」
王子は扉に刺さっていた爪を抜き、体を震わせながら、醜く伸びた爪の背でそっと彼女の頬を撫ぜた。柔らかい毛に囲まれた彼の目は驚愕に揺れ、ほんの少し濡れている。何度か頬の上を上下していた爪が、今度は結い上げた髪の後れ毛に触れようとする。その瞬間、彼の瞳の色が一瞬、獣のものに変わった。
王子の唸り声と同時に、リリーは低く身を屈めた。
「っ失敬!」
爪は寸のところで激しく扉を引っ掻いた。彼女は鋭く剣を振り、斜め下から彼の首を強打する。
その巨体が衝撃でよろけているうちに、距離を取って剣を構えた。突然のことに虚を突かれた王子は、信じられないような顔でリリーを見つめる。
「な、んで……あ、ぼ、僕……ま、また、」
「ご安心ください、この剣は刃を潰してありますから」
「…………う、うぅ、う……!!」
王子は悲しげに頭を振り、そのままの勢いで天蓋の柱を砕いた。繊細なレースの残骸が舞い、折れた柱がシーツの上に木片を散らしながら床に落ちる。
身を翻した王子へ、リリーは剣を構える。涎を垂らして雄叫びを上げ、接近してきた彼の咽頭に、彼女は力の限り剣を突き立てた――。
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