ベラドンナの娘

郡楽

第一章 リリーと野獣王子の呪い

第1話 三柱の娘

 見上げるほど高い王城の天井に吊るされた無数の発光水晶玉のきらめきが、磨かれた大理石の床に反射していた。


 完全に開放された扉をくぐると、大広間から響く音楽や、貴族たちの歓談かんだんの声が客人の胸を躍らせる。夜にこれほど多くの客人が招かれるのは、この月例舞踏会の夜だけであった。


 王都、そして周辺地域の貴族たちが集まるこの舞踏会へは、自由参加と謳ってはいるものの、特別な理由がない限りは出席することが暗黙の了解となっている。


 それはたとえ、いにしえから王族を支え続け三柱さんちゅう貴族と名高い伝統的な公爵家の娘たちにとってもまったく同じであった。



 ――始まりのトランペットが鳴る少し前、王城の前に三つの馬車が同時に停まった。



 ベルセリア家、フィンガル家、そしてバラモア家。馬車には各家の伝統色と紋章入りの旗が優雅にはためいている。


 豊穣ほうじょうのベルセリア家は紅葉こうようの秋の色を、知恵のフィンガル家は夏の新緑色を、そして武勇を司るバラモア家は、深い深い夜の色を。馬車から降りた三人の娘は、正装として一族の伝統色をその身に纏っている。


「あらぁ、ごきげんよう。今日は珍しく私が一番だったのね」


 そう言って微笑むのはベルセリア家の長女・ベルナデッタ嬢である。


「ごきげんよう。でも、到着がどうのなんて、たった数秒の差だわ。いつもはリリーが一番早いじゃない」

「やだ、別に責めてる訳じゃないの。ただ珍しくて。どうしたのかしらって」

「ふぅん? 一々嫌味に聞こえるのよねぇ、あなたって」

「どうだっていいから、私を挟んで下らない言い合いをしないでくれ……」


 幼馴染の三人はそれぞれ全く違った足取りで進んでいく。門前に立つ衛兵えいへいの横を通り過ぎると、彼は横目に彼女らを眺めた。


 この舞踏会はパートナーと出席する者が大半である。


 そうでない者は出会いを求める未婚の男女たちとなる訳だが、それでも普通は家族や仲介人、護衛など大勢を引き連れてやって来る。


 しかしこの三人に限ってはパートナーを引き連れることはなく、リリーはバラモア家から執事のセヴァのみを、ソニアは特別美麗な護衛兵を二人従えて、ベルナデッタは数名の使用人を馬車に待たせ、その身一つで軽やかに王城へと入って行く。


 吹き抜けの玄関ホールから続く短い階段を登りきると、三人の視界は一気に華やぐ。


 色とりどりのフランセードレスズの花が広間に咲き乱れ、音楽が始まると誰ともなく手を取り合って中央へ出る。階段の踊り場から見下ろすその光景は、何度見ても壮観であった。


「フィル王子はどこへ?」


 そう言って、落ち着かない様子で王座の周囲を見回すベルナデッタを咎めたのは、優雅に扇子を仰ぐソニア・フィンガル嬢である。彼女は羽根のついた乳白色の扇子で口元を隠すと、呆れたようにベルを一瞥いちべつする。


「まだお部屋に控えられてるんでしょう。みっともなく慌てては淑女が台無しですわよ」


 彼女は次に、ベルの傍らで硬い表情を崩さないリリー・バラモア嬢を流し見た。


「それにリリーも、戦地に赴く訳でもないのだし、もう少し表情を緩めてはいかがかしら?」

「ここは戦場よりも性質たちが悪いだろう。……早く陛下に挨拶して、この下らない集まりを終わらせよう」


 突然白羽の矢が立った彼女は表情を引き締めて、一足先に階段を降り始める。


 リリーの、ベラドンナの実の如く艶やかな黒髪はバラモア家の証である。


 それによってより一層厳格な印象を持たせている彼女は、にがんで歪みそうになる口元を真一門に結んで自分たちを見上げる貴族たちから視線を外す。睨むはただ一つ、王座の横にある空席である。


のね……」


 慌てて彼女の横について階段を降りるベルが、こっそりと耳打ちをする。


「確か、今月はナナリー伯爵令嬢だったかしら。陛下もこんな無謀なことはお止めになればいいのに……」


 ソニアが溜息を吐く。二百年の安寧が続くこの国が突然の不幸に見舞われたのは約十七年前……フィリップ王子が生まれてすぐのことであった。


 長いこと待ち望まれた王子の生誕祭は、連日にわたり壮大に行われた。皆が喜び浮かれ、陽気に騒ぐ町に訪れたのは一人の旅の魔女。彼女は王子の光り輝く純真な魂を渇望し、こんな呪いをかけた。



『 アースクルターチマ  聞き入れ給え  ……この赤子の魂と満月を写し鏡に……

  清い心の持ち主なればこの世で最も醜い生き物へ、

  醜い心の持ち主ならばこの世で最も清い生き物へと姿を変えるだろう! 』



 満月の夜、王子の姿は世にも恐ろしい醜い獣へと変わる。その呪いを解けるのは、獣の心を宿した王子を心から愛し、また王子からも無私の愛を捧げられた女性だけ。困り果てた国王は、著名な占い師や医者に解呪を依頼しながらも、魔女が残した言葉を信じ続けた。


 運命の女性を見つけるため、国王は様々な娘を城へ招いた。


 初めは三柱の令嬢たちを、その次に国中の娘を。だがどの娘も、昼間は美しく微笑む清廉な王子を愛したが、夜になると恐怖におののき、青めた顔で彼の部屋から飛び出すのだった。


「やめたところでどうする。また私たちが交互に彼を訪ねるのか?」

「それがいいわ! 私っ、はたった一回の機会を無駄にしてしまって……」

「呑気だな、三人とも殺されかけたというのに」


 余程未練があるらしいベルが今度こそと息巻く横で、リリーは決して同意はしなかった。


 八年前……王子の私室を訪ねたリリーは当時九歳だった。まだ剣を振るうことはおろか、大人用のそれを持ち上げたことも無いほどに非力で幼い。


 響く咆哮ほうこうが、月輪げつりんの中に浮かぶ振りかぶった鋭い爪が、剥き出しにされた長い牙が。まばたきの間に、扉を背にして立ち尽くすリリーの目前に迫って瞬間だけは、彼女も鮮明に覚えている。


 だが外へ泣きすがるには、あまりに恐怖に支配され過ぎていた。彼女の姿を見るなり間近に寄った野獣王子の目が震えるリリーを捉える。腰が抜けて動けない彼女はただただ恐怖で立ち竦み、静かに己の死を悟った。


『お嬢様!』


 突如凭もたれていた扉が開き、呆気なく後ろに転びかけた彼女を支えたのは室外に控えていたセヴァであった。


 急いで扉を閉めると、間もなくして内側から鋭い爪が木を引っ掻く音が聞こえる。このままあの部屋に居たら、今頃傷つけられていたのは扉でなく自分自身だっただろう。リリーはりきむセヴァの腕の中で、呆然とそんなことを思った。


 あの満月の夜以降、王子とは公的な行事以外に会っていない。そしてその数少ない行事中でさえ、視線が交わることは決してない。


 元からそう頻繁に会う訳でもなかったが、リリーが父に連れられて王城へ出向いた時は王子の方が徹底的に彼女を避けたし、彼がそう望むのならそれで構わないと、リリーもいつからか彼を避けるようになった。


 そしてあの夜、圧倒的な力の前に逃亡という選択肢しか取れなかった屈辱を振り払うように、彼女は剣を取り、そしてすぐに己の存在意義と才能を理解した。


 ――リリーは、開かれたバルコニーの向こうに浮かぶ満月を見た。


 この舞踏会の騒ぎでは、塔に軟禁された王子の咆哮も掻き消されてしまうだろう。八年前に見た彼の荒れた部屋を思い出す。さぞ苦しかろう。今もきっと、彼は怒りと孤独に喘いでいるに違いない。


「あら、あなたもそんな顔ができるのね。てっきり恋人は剣だけかと……でも今のあなたが王太子殿下と面会したら、うっかり斬り付けてしまうのではなくて?」

「私は……バラモアの剣は決して殿下を傷つけない。だいたい、ソニアは人のことを言えるのか? フィンガル家の次期当主にしては派手好きが過ぎると思うが」

「あらイヤね、歴代の当主たちが地味すぎるだけよ。それに、深層しんそうの真面目さは外見からは測れなくってよ?」

「言動も相応だろう。社交場に出てお前の浮名を聞かない日はない。この私がだぞ?」


 華やかな世界を嫌厭けんえんし、用のない人間を容赦なく斬り捨てるリリーでさえもソニアの噂は時たま耳にする。互いを皮肉る二人の間に、慌ててベルが割り込んだ。


「もうっ、喧嘩してるの? どっちも悪いわよ! ソニアは確かにもう少し慎むべきだし、リリーはその殿方のような口調を直すべきだわ! 二人共、お母様が見たらなんておっしゃるか……!」


 ベルは彼女の母が怒る光景を想像して、さっきまで赤かった顔をさっと青くした。


 公爵家の小さなレディーたちは皆、ベルの母に淑女のマナーを厳しく教え込まれる。


 指導に一番乗り気だったのはソニアで、彼女は淑女というにはやや派手好きなものの、誰よりも飲み込みが早かった。


 ベルのお小言を聞き流しながら手持ち無沙汰に扇子の開閉を繰り返していたソニアは、遠くにいるある男性と目が合って、小さく微笑んだ。


 左手に持っていた扇子を大きく開く。その笑みに惑わされた若い男は、ポッと頬を染めて、持っていた空のグラスを取り落としてしまった。


「――ねえねえソニア……ソニア? ねえ、王子のこと、陛下に頼んでみましょうよ」

「そうねぇ……リリーも行く?」

「私は頭痛がするので少し休む。セヴァ、ワインを」

「ちょっと、頭が痛いってのにワインなんか飲むの!?」

「ベル、さっきから言葉が荒くてよ」


 ソニアはベルを引っ張って、王座の方へと歩みを進めた。リリーは幾つかある休憩室のうちの特に大きく豪華な部屋――昔から、この休憩室が三人のお気に入りだった――に入り、柔らかいソファーに身を預ける。すぐにセヴァがやって来て、ワイングラスを渡した。


「よいのですか?」

「なにがだ」

「王太子殿下ですよ。あのお二人に出遅れてしまいます」

「私が頼んだところで、殿下に断られたらそれで終いだ。それならあの二人で行ったほうがいい」

「ですが、いづれ再び訪れる満月の夜のために、剣の腕を磨かれたのでは?」


 リリーは彼の質問には答えず、グラスの半分を一気に煽った。


「おお、流石の飲みっぷりでございます。ですがお水も飲みましょうね」

「私が剣技を磨いたのはいざという時のためだ。呪いが解ける保証はないんだ。だがもしも……もしも運命の人が現れたならそれに越したことはない……私はバラモア家の一員として生まれた責務を果たす。そこに男も女もない」



『――わっ、わたし、くやしい……! なにもできなかった! こ、こわかった……! フィルはあの時……ヒック……っか、悲し、かお、してたのに……た、っ助け、られなかった……!』

『……リリー……そうか。お前にはあの殿下が、そう見えたんだな? ……よく聞きなさい。いざという時、フィリップ王子を守れるのはお前しかいないかもしれない。できるか? 彼を、彼の心を守ってやれるか?』

『ま、守る……ッヒク……。は、はい、お父様……、……国王へいかと、べ、ベラドンナに、ちかって……わたしが絶対、フィル王子を守ります――』



 幼き日のつたない誓いがふと脳裏に過る。彼女は湧き上がる感情を押し潰すように、幾度となく胸中きょうちゅう反芻はんすうしてきた家訓を思い出した。


『この国に君臨するタラント王家が太陽を称するならバラモア家は月を。王が空を舞う鷹なれば我は地を這う蛇を。王が清廉潔白なユリの花であるならば、我はベラドンナを手にするだろう』


 両家は常についにある。陽向ひなたと影、表と裏。対局から王家を支えるこの一族の根柢に流れるものは、清く一途な騎士道である。かつてからバラモア家は、王族を支える崇高すうこうな騎士を多く輩出はいしゅつしてきた偉大な血筋なのであった。

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