黒く染まるということは
私が初めてそれを見たのは、この長い旅を始めてすぐの頃だった。
当時の私は、世界への好奇心と、未知への探求心に動かされ、広大なこの世界を歩いていくことに幸福を覚える、単なる旅人だった。
辿り着いた国は、既に滅んでいた。
しかし、建物はすべて健在で、その国が誇っていたであろう、巨大な城でさえ、綺麗なままで残っていた。
何故、滅んでいた、といえるのか。答えは簡単だ。道ばたには無数の死体が転がっていて、それら全てが、この国の住人であると思われたからだ。死体は、老若男女問わず、どれも無残に惨殺されていた。
血まみれの主街路を辿っていき、大きな広場へ出ても、そこには無数の国民だった者たちが、山のように倒れていた。
その光景に気圧されながらも、歩みを進めていくと、何か貪るような、気色の悪い音が聞こえてきた。まるで獣が腐肉を漁るような、そんな音だった。
その主は、すぐに見つかった。死体たちと同じようなボロボロの衣服を纏い、人の姿をしていながら、人ならざる形を持つ者が。
彼の者は、人間だった。人間の肉体から、異形の肉体が生えていたのだ。
腕は、腕の機能を完全に失い、カマキリのよう刃物となっていて、足からは巻き付くように茨が生えていた。背中からはコウモリのような羽が折りたたんで生えている。異様に髪の毛が伸びていて、垂れ下がった髪で表情はわからなかったが、額からは一本の角ようなものが突起している。
彼の者を私は人間だと思ったが、とても人間ではない姿だ。だけど、当時の私の目には、ごく普通の人間にしか見えていなかったのだ。彼の者が纏う黒い靄も、その異形の姿も、見えているはずなのに、見えていなかったのだ。
異形の者は、案の定、死体を貪っていた。人間が、人間を食っていたのだ。それを見た途端、彼の者は、存在してはいけない罪人だと、そう思った。
逃げようとする間もなく、彼の者は襲い掛かってきた。避けようにも戦闘となってしまい、私はその者を殺めるしか手段はなかった。
その時からだろう。私は自分の中の何かが蠢くのを感じたのだ。
人を殺めるのは、これが初めてではなかった。今さら殺しを、辛いとも、悲しいとも考えたりすることも無かったのに。根拠のない不快感が、私を苛んでいた。
頭の中に、記憶にない情景が繰り返し流れてくる。その情景は言葉では表せない、とても不愉快な感情を呼び起こさせた。
その不可解な現象はすぐに治まり、情景がどんなものだったか、私の記憶にすら残らなかった。けれど、私の胸の内には、一本の楔が撃ち込まれていた。
ふと、今しがた殺めた者を見ると、そこには見たことのない異形が倒れていた。殺したはずの者ではなく、獣人のような、昆虫のような、鬼のような特徴を持つ、人の姿をした何かが。
その時、私の中の何かが変わったのは間違いないだろう。私は初めて、黒い靄と、それが作り出す異形を目にしたのだ。
そして、それが何なのかもわからずに、私はただ、それを敵と捉え、悪の存在だと決めつけていた。
私自身も、後に同じ過ちを犯すとも知らずに。
ヒストリアは、じっと獣人の少女を睨みつけていた。
獣人の少女も、じっとヒストリアを睨みつけていた。
双方、ピクリとも動かない。ヒストリアは杖を少女の方へ構え、少女は体毛を逆立たせて、その瞬間を待っているようだった。
(くぅ、全然動かなくなっちゃったなぁ。)
この戦い、実際に押されているのは、ヒストリアの方だった。得意の雷の魔法を展開したのはいいものの、獣人の少女には一発も当てることが出来ないでいるのだ。
何度かしびれを切らした少女が、ヒストリアに向かって突進してきたが、そのたびに、杖から雷を放ち、迎撃しようとした。
雷は、空の雷と同等の速度と、力をもっている。巨大な雲の間を瞬く間に駆け巡る速度と、大地に被雷した時の衝撃をもっている。直撃を避けた程度では、回避にはならないくらい強力な魔法だ。
しかし、少女はそれを軽々と躱し、なおかつ致命傷を受けずに、対等に渡り合っている。ヒストリアの常識では、そんなことはありえないことだった。
おかげで、警戒しきった少女は全くと言っていいほど動かなくなってしまい、膠着状態が続いている。当然、ヒストリアが動かなければ、少女も無暗に動かないだろう。
そんな膠着を破ったのは、どこからか降ってきた無数の矢だった。
矢の雨は、少女に向かって弧を描きながら降下し、降り注いだ。
「なに!?」
獣人の少女は、しかし意も介さずにピョンピョンと全ての矢を交わしていた。少女がいたあたりの地面は、矢の剣山となってしまった。
振り返ると、そこにはケルザレムの兵隊たちの姿があった。隊列を組み、ボーガンを構えて矢を番えている。
「次弾装填!」
指揮官らしき人物が大声を上げている。そんな中へ、獣人の少女は向かっていってしまった。
「だめっ!にげて!」
せっかく注意を惹きつけていたのに、少女の標的が変わってしまった。馬が駆けるよりも早く少女は隊列の中へ飛び込んでいって、再び悲鳴と共に惨劇が始まった。少女は無惨にも、兵隊たちを素手で殴り倒したり、獣人の爪や牙で引き裂いていた。
ヒストリアは少女へ向かって雷の魔法を放った。後ろから不意打ち気味に放ったのだが、野生の勘でもあるのか、少女は簡単に躱してしまった。ヒストリアからすれば、もはや意味が分からなかった。闇雲に放っているわけでもないのに、視覚外からの稲妻の攻撃を躱せるものだろうか?
「どうしよう・・・、どうしよう!」
目の前で殺戮が行われていく。一応この国の兵隊たちは、それなりの訓練を受けているのだろう。一歩的な戦い、とまではいかず、負傷者を出しながらも、後退戦を繰り広げていた。しかし、戦闘に頓珍漢なヒストリアでもわかるくらい押されていることがわかる。
いくら自分の命を第一に考えろと言われても、目の前で人の命が傷つけられていくのを見ていて、何もしないわけにはいかない。魔法と言う素晴らしい力をもっているのだから、それを有意義に使わなければ。
ヒストリアは、杖を構え、大きく息を吸った。
「ふぅー・・・。雷よ来たれ。嵐と共に・・・」
自身の魔力を杖へと送り込み、雷雲と一体となる感覚を研ぎ澄ます。大魔法には時間がかかる。ヒストリアの常識ではそういうものだ。今も目の前で惨殺されていく様を見ていても、決して動揺してはいけない。
杖の先が光りだし、空の暗雲からも青紫色の光が見え始める。
「よし、・・・今度こそ、速度も威力も・・・。さっきよりも、強く・・・」
杖の先を、少女へ向ける。ヒストリアがその気になれば、瞬きをする間もなく、少女に天から稲妻が落ちる。躱すことなんてありえない。
「いくぞぉ・・・。やっ・・・・・・」
「ヒス、ストップ」
まさにその稲妻を落そうとした瞬間、聞きなれた女性の声がしたかと思うと、ヒストリアは膝裏を猛烈にどつかれ、コロンと体が転び、頭から地面へと飛び込んだ。本来なら、頭にたんこぶができるほどの痛みが来るはずなのだが、後頭部にはそれらしいものはこなかった。代わりにふさふさの柔らかい毛並みの感触が、ヒストリアの頭を覆っていた。
「せ、先生?」
頭を支えてくれたのは、アキだった。そして、ハルはそこにはいなかった。
「・・・いつから、ワンちゃんになったんですか?」
「違う。この子は私の眷属だから、意識を少し借りてるだけ。あと勝手に名前つけないの」
ハルの姿はなかったが、そう言うことらしい。
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