1対軍隊

ハルは、ケルザレム中を逃げ回っていた。この国の兵隊たちは、たった一人の少女を、総出で追いかけ、そして、どういうわけか追いつくことすら出来ていなかったのだ。


当然それには理由がある。ハルは、龍族であるが、人の姿をしている。しかし、その身体能力は人間よりも、やや高いのだ。駆け足はそれほど差はないけれど、持久力は人間の比ではない。

人間なら、息を切らすような長時間の追いかけっこでも、ハルには造作もないことだ。

跳躍力もそうだ。ハルは、猫の程ではないにせよ、人間にちょっと毛が生えた程度の跳躍で、屋根に手を掛け、人間よりも身軽な動きで、その屋根に上ることが出来る。

龍族、という恵まれた種族であるが故に、彼女の逃走は容易に成功したのだ。


ケルザレムの中心地を右往左往し、さらには上下にも逃げ回っているうちに、何時しかハルを追いかける兵隊は、遠くの喧騒へと変わっていた。


「ようやく巻いたかな」


ハルとしては、あの老婆の声の主を探していたのだが、無尽蔵に増える兵隊に手を焼いて、結局気配を見失ってしまったのだ。


「手駒を操って、高みの見物でもしてるんだろうけど、いい身分ね。傲慢にもほどがある。人を何だと思ってるんだか」


彼の老婆は、おそらく兵隊たち全ての意識を奪い、その体を操っている。と言うより、一つの命令に従わせているだけなのだろう。だから、兵隊たちは、ただハルを追ってくるだけの無能な集団へとなっているのだろう


「とはいえ、このまま追われ続けても面倒だな。ヒスの方もどうなったか心配だし。それに・・・」


ハルは、建物の屋根から屋根を上り、比較的高い塔のような建物へ登った。周囲を見渡すには、やや低いが、状況を知るには申し分ない。


ケルザレムは、よくある円形型の地形構造をしている。外周にはネクサスたちの労働所が。中心部には居住区があり、円心へ行くにつれて、上流階級が住まうようになっているのだろう。


高い所へ登って人々の動きを見れば、状況はわかるものだ。そして、一目でこの国の異常さが理解できる。


兵隊や、衛兵以外の国民は、ほとんど見られない。建物の中にいるのか、あるいは、身を隠すよう言い渡されているのか。

どちらにしろ、それが統治者によってもたらされているのがよくわかる。

この国には、人々の生活の営みが見てとれない。全て、一つの意思の元に、動いているように見える。それが、あの天族の魔法によるものなのか。洗脳に近い政治を行っているのか。


「この国は、もうだめかもね」


ハルは、幾度となく向けてきた冷たい視線を向けていた。こんな国を、嫌という程見てきた。

たった一人、あるいは、一部の悪の勢力に縛られ、人としての繁栄を奪われた、哀れな国たちを。


コルクにこの国のことを聞いてから、ケルザレムと言う国が、へ向かっているということは察していた。それは、単に滅びに向かっているというだけではない。この国がいずれに飲み込まれて、滅びに瀕したとしても、その被害は、この国に留まらず、やがてこの地域一帯を覆いつくすだろう。


早いうちに手を加えておかなければならない。しかし、ハルにできることは、別の方法で滅びを与えることだけだ。それは、確かに問題を解決できる術ではあるが、単なる時間稼ぎでしかない。

例えこの国を滅ぼしたところで、世界のどこかで、黒く染まった者が生まれ、やがてこの国と同じ問題に直面するだろう。


だからこそ、黒く染まった者を、その黒を、取り除くか、受け入れる方法を探さなければならないのだ。世界が暗闇に飲み込まれる前に。


「はぁ、この国の黒は、私が引き受けるとして。せめて何か進展に繋がる情報だけでも得られればいいんだけどな」


ヒストリアには、この国入る前に、最低限の教えを言い聞かせておいた。この国ですべきこと、一番に考えるべきこと。情に流されず、必要な情報を得るためだけに動くようにと。まだ旅を始めて間もない彼女には、難しいことかもしれないが、危険を冒してでも、情報を得るメリットはあるだろう。


それでも、ハルは心配だった。情報を得ることに関しては、特に気にしてはいないのだが、身の安全に関しては、心配で心配でしょうがないのだ。

魔法の才能があっても、あの子は15の子供だ。コルクの時のように、一瞬隙を付かれるかもしれない。それで命を落とすなんてことは、よくある話だ。


「・・・おいで」


ハルは、誰に声をかけるでもなく、そこにいる自身の眷属へと声をかけた。すると、空中に前触れもなく炎が起こり、その中から、一羽の鳥が姿を現した。


「あぁ、ダメダメ。ワンコいない?」


鳥にそう言うと、再び炎が起こり、鳥は姿を消し、代わりに足元から炎が起こり、地面からにゅっと狼が姿を現した。


「おっけー。悪いんだけど、あの子についていてくれないかな?」


狼にそう声をかけると、狼は頷きも、吠えることもせず、さっと屋根から飛び降りていった。その行く先を少しばかり見守っていると、屋根の端に、幾本かの魔法の矢が突き刺さってきた。


「見つかったか。追いかけっこは面倒だけど、逃げ回っているうちに、あの天族の居場所も割り出せるでしょう」


彼の者の気配はまだ覚えている。ハルが用があるのは、あの老婆だけだ。探すしかない。その間に、教え子が何らかの情報を得てくれることを、祈っていればいい。


ハルは、屋根から飛び降りて、再び逃走劇を始めた。今はまだ、反撃をする時ではない。自分が手を下すときは、それはこの国を終わらせるときだけだ。





全方面、ガラス張りの部屋で、うめき声のような老婆の声が聞こえてきた。


「くぅ、なぜ逃げる?何故誰も殺さないんだい?白蝕龍め、腑抜けにでもなったのかねぇ」


そういいながら、老婆は暗い部屋の中から外を眺めていた。ガラスの向こう側、ケルザレムの街の中では、無数の兵隊たちが動き回っている。高所にあるガラス張りの部屋からは、まるでアリの観察をしているかのようだ。


老婆は自分の指の爪を噛んで、歯ぎしりさせていた。思い通りにならないことが気に食わないのか、同じ場所を行ったり来たりして、何かを考え込んでいるようだ。


「あの女は、人を人と思っていないはずだ。その気になれば、あんな兵隊共は、すぐにでも八つ裂きにされているだろうさ」

「じゃあなんで誰一人殺さず、逃げ回っているんだい?そもそもあの女は本当に白蝕龍なのかい?」

「そうとも。あの純白のたてがみを見ればわかるだろう。かつてのアストレアを滅ぼした、身なりだけは一丁前の小娘だろう?他に何がある」


ひとりごとのように聞こえるが、まるで自分以外の自分と話をしているかのようだった。声は同じでも、その口調や声音で、まるで一人で数人の芝居をしているみたいに。


「何かがおかしい。レイナはあんな炎の魔法を使うんだったかのぅ?」

「魔法なんざ、龍ならいくらでも使うだろうが」

「いや待て。そもそもなぜ彼奴は人の姿でいる?あれだけ馬鹿王子の前以外では、決して人の姿を見せなかったあの子娘が」

「龍の姿に成れば、この国には入れんだろう?

「いや、あたしらを狙ってきたのなら、それでいいはずだ。それなのに・・・」


そうやって自分と自分で自答し続けているうちに、老婆の影は、すっとまがった腰を起き上がらせた。


「・・・あの女は何者だ?」

「レイナじゃ、レイナ・アストレア」

「愛に溺れ、愛によって、その身を滅ぼした哀れな女」

「そう、あの女に、あたしらを殺る力なんてありはしない。だけど・・・」

「もしそうでないなら、今も逃げ回りながらも、あたしらを探しているあの女の目的はなんだ?」

「・・・復讐か?いや、あの女にそんなことはできはしない。あの女に、人を殺める度胸は、もうない!」


そう強く言い放った時、老婆の足元が、バチンと火の粉を上げた。


「ひっ!」


思わず後ずさった老婆の影は、僅かに震えていた。火の粉が上がったと思った場所は、何も起きていなかった。焼けた跡もなく、音もまるで幻聴だったかのように、ガラス張りの部屋は静かだった。


「・・・あたしらは、とんでもないものを引き入れてしまったのではないかえ?」

「とんでもないものだって?それがなんだというのさ」

「所詮、龍一匹。あたしらの力の前には、赤子も同然。目前に迫られたとしても、彼奴の目から精神に介入し、意識を奪うまでのこと」

「油断は禁物だよぉ。・・・そうだ、この間手に入れた、学生さんを使ってみようじゃないか」

「おぉ、あの子か。いいじゃないか。人の姿でいる龍なんぞ、本物の化け物には遠く及ばない。早速向かわせるとするかね」


老婆は両手の皺と皺を合わせ、何かを唱え始めた。ガラス張りの部屋には、ただその声が聞こえていたが、その大気が、どんっ、と震えたよう振動した。


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