第01話   唯一、少年のエルフ

 柄の長いブラシで馬小屋の掃除をしていると、ふと、水を思い切り流すために必要なバケツの水が、カラになっていることに気が付いた。


「あれ? さっき小川で汲んだはずなのに」


 足元から視線をあげると、顧客から預かっている馬の一頭が、


「ブルルル!」


 上唇を震わせて、少年に水気を飛ばしてきた。


「うわ! アハハ、君が飲んじゃったのか。もう仕方ないなぁ、また汲んでくるよ」


 バケツを片手に外へ出る。すると、


「人間、話がある」


 雇用主のエルフが歩いてくるところだった。肌の露出の少ない作業着姿で、鞣した革で作った軽装備。腰には馬を手入れする道具類が突っ込まれたポーチが揺れているが、アレンが雇われてからあまり使われていなかった。


「なに? ディントレスさん」


「近々、里長の末の息子が試練の旅に出られるそうだ。従者を選ぶ儀式も執り行う」


「従者って、どういう仕事?」


「共に旅をする使用人というところだな。せいぜい荷物持ちぐらいだろうが、選ばれたら名誉だ」


 アレンの雇い主ディントレスは、日差しを浴びて輝く金の髪をオールバックに撫でつけた後、少し落ち着きなく長い耳を触っていた。


(あ、ディントレスさん今、そわそわしてる……)


 無表情か、眉間にしわを寄せているかの二種類が彼の普段の顔。だからいつもと違う仕草が大変よく目立つ。アレンにも見抜かれてしまうほどだった。


(意外だなぁ、ディントレスさんは名誉どころか、仕事以外だとあんまり他のエルフと交流を持たない性格なのに……。従者に選ばれたら、何かすごく得になる事でも起きるのかな?)


 雇用主の言わんとしていることを、なんとなく察してしまったアレンは苦笑した。


「行ってきなよ、ディントレスさん。選ばれて名誉なのに、無碍にすることないじゃん」


「いや、まだ何も決まってはいない。これから誰かが選ばれるかもしれんのだ。最近、ここいらで里長の末息子殿を、よく見かけるものでな、もしかしたらと……」


「へえ。それじゃあ留守は任せてよ。馬たちはしっかりお世話しとくからさ」


 アレンが彼を応援する気持ちに偽りはなかった。動物しか話し相手がいないのではないかと疑われるほど気難しいこのエルフに、耐えられる任務内容だろうかと心配だったが、本人が乗り気のようだから何も言わないでおいた。


「それじゃ、俺はバケツの水を汲みに行ってきます」


「掃除する前に用意しておけと教えただろう」


「アルビスにガブ飲みされたんだ」


 後ろから小言がねちねち聞こえてくるが、いつものことだとアレンが気にせず歩いてゆくと、やがて木々の枝に並ぶ小鳥の囀りに負けて消えていった。



 木製のバケツを小川にぶっこんで、ザバリと汲み上げる。


(エルフの里の水って、なんでこんなにいい匂いがするんだろう。薬草で香り付けしてるのかな。不思議だなぁ)


 パカパカと、静かに歩いてくる黄金の鬣の馬が、近づいてきた。


「ん? うわ! 立派な馬ぁ!」


 銀縁の鞍と兜をまとっていて、まるで貴族のような風貌だった。どこからこんなに目立つ馬が現れたのかと、辺りの茂みを見回すと、


「俺の馬だ」


 茂みの奥から声がした。


 アレンは黄金の馬に髪の毛をもしゃもしゃされながら、茂みに近付いてみた。


 風に揺れる木漏れ日の下で待っていたのは、鋳造されたばかりの眩しい金貨のような髪色をした、すらっとした四肢の少年だった。繊細な網目模様の銀細工のティアラを斜めに被って、ヘアバンド代わりにしている。白いマントの下から、よく鞣した革の防具をしっかり着込んでいるのが見える。


(わあ、すっごく眩しい子だな。なんでだろう、この子の髪色のせいかな、それとも白いマントが日に当たっているせいかな)


 この少年エルフ以外で純白をまとっている人物を、アレンは見かけたことがなかった。


(もしかして、昨日来てくれたお客さんかな。あの時は顔が見えなかったけど、声が、とてもよく似てる)


 アレンは、ぺこりとお辞儀した。


「おはようございます。ディントレスの馬小屋をご利用ですか?」


「うん、俺の愛馬を預かってほしい。手綱を引いても嫌がるだけだから、乗って動かしてほしいんだ」


「承知しました」


 背の高い馬だから、アレンは持っていたバケツをその辺でひっくり返して空っぽにし、それを足場にして馬の背にひらりと身を移した。


 エルフの少年が面白い形の雲を眺めるような眼差しで、馬上のアレンを見上げている。


(あれ? このエルフの男の子だけ髪が短いんだな。てっきり腰に届くくらい伸ばす掟でも、あるのかと思ってた)


 馬小屋の主ディントレスも、馬を預けに来るお客のエルフも、全員がよく似た髪型をしていた。アレンは伸びてきたと思ったら、その都度自分で切っている。だからか、黄土の子犬のような毛並みは、少しボサボサだった。


 前髪がふわりと風に撫でられ、ふと背後に気配を感じたアレンは、両脇の下からスラリと伸びてきた腕に、腹部をギュッと包まれた。


「捕まえた」


 無邪気な笑い声が、アレンの耳にかかる。


(ええ!? いつの間に後ろに!)


 地面を蹴る足音も、跳躍する息遣いも、何も感じなかった。


「こんなに簡単に引っかかった。アレンはバカだな」


 アレンの作業着の中に細い指先が入り込む。好き勝手にまさぐられて、我慢できずにアレンが吹き出した。


「アハハハハ! な、なにするんだよ! 馬の上でふざけるのは危ないから禁止!」


 爆笑しながらも、高い馬上で不安定な体勢になって本気で怖がるアレン。分厚い作業着に覆われた胸は、薄い下着越しに何度も爪先で弾かれて、思わず身が跳ねそうになるのを必死でこらえる。


 服の下から、やっとの思いで腕を引っ張り出した。乱れた呼吸を整える。


(なんなんだ、このエルフは)


 爪先でいじられた箇所が、ジンとうずいた。それを抑えたくて、手で押さえる。


(……たまたま指先が触れただけで、こんなに反応するようになってる)


 後ろにいるエルフの少年には、絶対に知られたくなかった。この隠れ里に来てから初めて存在を知った、歳の近しい少年エルフ。馬を使ってイタズラしたり、くすぐったり、今もぬくもりが感じられるくらいにアレンを抱きしめている。


 細い指先で乳繰られた先端が、じんわりと熱っぽい。


(治まれ、治まれ……ばれたら恥ずかしい……)


 ディントレスが留守の間、馬小屋の離れにある自室で、何度も体を売らされた経験が蘇り、アレンはじっと身を屈めた。


 そういう商売に利用されていることを、後ろのエルフの少年には絶対に知られたくなかった。


 チャリ、と澄んだ音が鳴る。


「アレン、これやる」


 首元に冷たい気配が触れ、胸元にチャリンと金属が鳴った。うなじに鎖がひんやりと当たって、背筋がぶるりとなる。


 何をされたのかと見下ろすと、胸元にゴツゴツした銀色の塊が吊るされていた。


「……なぁに、これ? 花?」


「太陽だ。俺が初めて製った銀細工」


 言われないと絶対にわからない、今にも数多の触手を動かして踊りしそうだった。


「太陽を、なんでくれるの?」


「いらないのか? せっかく持ってきたのに」


「えっと、嬉しいけど……銀なんて高価な物、君から貰う理由がないよ」


 アレンが見上げると、エルフの少年も見下ろしていた。けぶるように生えた繊細なまつ毛に、縁取られたスカイブルーの瞳が、面白そうに揺れている。無表情の多いエルフ族には珍しい、口角の上がった多幸感ある顔だちだった。


「妖精からの贈り物だ。身に付けた人間を、この里から護ることができるぞ」


「え? なに? どういうこと?」


「売れば高値がつくだろう。人間のアレンが身に付けていて損はしないぞ」


「売ってもいいってこと?」


「うん? 嬉しくなさそうだな。人間は金になる骨董とやらが好きだと、書物にあったが」


「書物? ふふ、そんな本があるんだ。申し訳ないけど、これは売らない。大事にするね。あ、そうだ、この馬をどうするの? うちに預ける?」


 ただのイタズラ目的で馬を連れてきたのか、それとも、本当に預けたくて馬小屋の付近まで訪れたのか。


 アレンは自身が砕けた口調になっていることに気づいた。けれど、この少年エルフが全然気にしていないどころか、アレンの頭頂部にあごを乗せて、「う~ん」と思案するものだから、少しほっとした。


「この辺りを、一っ走りしてから決めたい」


「え? じゃあ俺、下りま――」


「行くぞ、ハイ!」


 軽快な掛け声とともに、足でポンと軽く馬の脇腹を刺激した。相棒の肩を軽く叩くような。


 やたら高いテンションの嘶きが、辺りに響き渡る。なんという美声だとアレンが目を見開いて感嘆していると、茂みや樹木の根っこがでこぼこと隆起している大地を、馬の蹄が軽やかに蹴りながら疾走しだした。


「ちょっと待って! こんな速度じゃ馬が木の根っこにつまずいて転倒するよ! 僕らも無事じゃ済まなくなる。手綱を貸して! 僕が馬をおとなしくさせるから」


「愛馬の宥め方くらい、体得している。ほらっ!」


 隆起した岩肌を踏み台に、馬が崖からエルフの里の中心地めがけて、飛行した。


 飛行した。


「飛んでる!! どうしてえ!!」


 いきなり全身に走る浮遊感に悲鳴を上げてしがみつくアレンに、無邪気な笑い声が返ってくる。


「蹄にエルフ文字で浮遊魔法の陣を刻んでいる。これは子馬のときから、空中浮遊に慣れさせている特別な馬だ」


 とんでもない高度から、小さな羽のような軽やかさを伴いながら、白い石畳へと着地した。


「まあ、すぐに高度が落ちてしまうんだがな」


「無事に着地できて本当によかった!! めちゃくちゃ怖かったよ!!」


 馬が転落して骨折しなくて、本当に安堵したアレンなのだった。


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