第25話 幽世

 貢と一緒に昼食を取るようになった切っ掛けは、みどりのアドバイスによるものだった。

『とにかく一緒にいる時間を増やすの。一目会って恋に落ちるなんて、そんな事、まず現実にはないから』

 彼女は、そう言った。側にいるのが当たり前な存在になるのが大事だと。

さっしてちゃん、かまってちゃんは駄目よ。面倒くさがられるからね。急に怒り出すのも駄目。でも、主張はしっかりする。められないように』

 なかなかに難しい。試しに水曜日意外にも会う時間をつくるように言われて誘ってみたところ、簡単にOKが出た。

『お弁当作って来なさい』

 明日のお昼を一緒に食べることにしたと話したら、みどりは、すかさずそう言った。

『胃袋を掴むのよ。料理が苦手なら、お惣菜そうざい詰めてもいいわ。美味しい店知ってるから今から買いに行こう』

 ところが、である。

「お祖父ちゃんが、持ってけって」

 貢は弁当を持ってきた。しかも重箱である。

「秋山さんと一緒に食べなさいって」

 蓋を開けてみると、蕎麦寿司が詰められていた。

「美味しそう……だけど」

「うん。お祖父ちゃんの蕎麦は絶品なんだ。蕎麦湯もあるよ」

 そう言って水筒を取り出す。

 持ってきた弁当は、夕飯にしよう。そう思った。

 蕎麦寿司は美味しかった。貢の家では現在、祖母である小百合が外で働き、一足先に定年退職した祖父は専業主夫となっている。ある意味時代の先端を行ってるわけだが、二人はとても仲が良く、見ていて羨ましくなる程だ。自分も遠い未来、あんな風になれたらいいと思う。ふと貢が蕎麦を打っている姿を想像し、そこに至る道のりの長さを考えて途方に暮れた。そんな日が来るのだろうか。どうも来ないような気がする。

──もう、友達でいいかも。

 今日はそんな風に思っても、明日になれば、また気持ちが募るのだろう。諦めきれない気持ちと、友達でいいから側に居たいという思い。答えが出ないまま、時間だけが過ぎていく。

『諦めるな。頑張れ』

 みどりの声を思い出し、桐子は自分に活を入れた。



 一緒に昼食をとる日が増えた。ほとんど毎日の週もある。桐子が作った弁当のこともあり、蕎麦の時もあった。カフェテリアのランチの時も、もちろんある。アリアドネミッションが続いているのかどうかは分からないが、とりあえず毎日無事である連絡は出来るので、小百合には喜ばれた。

「この問題は、八桁の電卓だけで解くんだって。エクセルは使用不可」

 A定食が乗ったトレイの横で、貢は小口の日焼けした本を開いた。虫食い算である。古書店街で買って来た本のうちの一つらしい。面白い数学や物理の問題を集めた本で、子供向きかと思いきや、後ろの方にはポアンカレ予想なんかも載っている。答えは別冊になっていたようだが失われてしまったとかで、少し安くしてもらったと言っていた。

 この虫食い算は桐子が通っていた高校のクラスで流行ったことがあるので、何だか懐かしい。

「5桁×5桁で123456789になる数字ね。高校の時、試験前にこれにはまって日本史で赤点とった子がいたわ。電卓では時間かかるなあ」

 桐子はシャープペンシルを取り出し、テーブルに文字を書き始めた。

「まずは素因数分解するの。1~9までを足した合計の45は9で割り切れるでしょ。まずは9で割って、商が13717421になるから、これのルートを……」

「テーブルに文字を書いちゃ駄目だろ。叱られるよ」

「あ、ごめん」

 貢にとがめられ、桐子は肩をすくめた。手近なものに数式を書き散らすのは、理系の人間に共通する癖のようなものである。桐子も例に漏れずそうなのだが、確かにテーブルはまずい。急いで消しゴムを取り出して証拠隠滅に取り掛かる。

「試験で赤点とったら困るから、これはまた今度にするよ」

 貢は笑いながら、本を鞄に仕舞った。

 二人の関係は完全に皆に認知され、貢は合コンの誘いが一切なくなったと言っていた。今日も法学部の友人たちは、貢を置いて夜の街に繰り出すのだという。

「元々行きたくなかったからいいんだ。女の子は苦手だし」

「ふうん」

 また、それを言う。私も女の子なんだけど。そう言いたかったが言えなかった。苦手になって欲しくなかったから。

「何故女の子が苦手なの?」

 尋ねてみた。貢は首を傾げ、「何でかなあ?」と呟く。長いことその体制のまま、とうとう腕まで組む。漫画に出て来る思案のポーズのようで笑いそうになった時。

──媛が焼きもちを妬くんだろう。

 突然耳元で声がした。声がした方を見て凍り付く。

 あの男がいた。

 ここはカフェテリアの外に置かれたテーブル席だ。しかし、聞こえていた筈のざわめきが止んでいた。あたりを見回すと、すべてが影絵のように色彩を失くしている。薄闇の中に、動かない人影だけが揺らいでいた。

──お前も見えるのか。

 男は桐子に向かってそう言う。にやりと笑った口元から犬歯が見えた。

 血の気が引くのを感じた。見えるのかって、どういう意味だろう。いや、もう理解せざるを得ない。桐子たちのいる空間は切り取られ、通常とは違うところに居るのだ。

──いい加減、戻ってこい。

 そう言うと、男は貢の頬に手を当てた。切れ長の目が細められ、切なげな表情をつくる。

──寂しいじゃないか。


 気付くと、昼休みの喧騒が辺りを包んでいた。周りを見渡し、いつものカフェテリアであることを認識する。貢は椅子に腰かけたまま固まっていた。茫洋ぼうようとした何かに取り込まれてしまったかのように、その姿は糸の切れた人形にも見えた。


 そして数日後、貢は姿を消した。

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