第22話 比売神

 桐子の悲鳴を聞いて、小百合は学長室を飛び出した。他の扉が開く様子はない。この時間、他の教授たちは大体が出払っているのだ。

 壁際に崩れ落ちた貢の姿と、その前にへたり込んでいる桐子の後ろ姿が見えた。

「どうしたの」

 貢の眼は焦点があっておらず、呼吸と脈を確かめて生存を確認せずにはいられなかった。

「秋山さん」

 再度の呼びかけでようやく顔を上げた桐子は、小百合の顔を見て緊張の糸が切れたように涙をあふれさせた。

「図書館にいた男が、さっき……」

「その男、どこへ行ったの?」

 あたりを見回し、小百合は立ち上がった。追わなければ。捕まえて話を聞かなければ。

 けれど、桐子は弱々しく首を振った。

「消えました」

 消えた?

「図書館の時と同じように、突然見えなくなりました」



 貢は熱を出して寝込んでしまった。とりあえずは家に居れば大丈夫だろうと思いながらも、纏わりつく不安を消し去ることはできなかった。

 桐子は家に帰ったが、心配なので一日一回は連絡を取ることにしている。今日も「異常ありません」とのメッセージが来たところだ。彼女を巻き込んでしまうことは避けたい。

「消えた」とはどういう事だろう。いったい何者なのだ。フーディーニか、カッパーフィールドか、それとも安倍晴明か。あの神社と関係があるのだろうか。あおり運転の犯人とは……。

──見当もつかない。

 小百合は頭を抱え、ダイニングテーブルに突っ伏した。


「書留が着ていたよ」

 そう声を掛けられ、小百合は顔を上げた。目の前に分厚い封筒が置かれる。

「貢はよく眠っている。心配ないさ」

 元医者がそう言うのなら大丈夫なのだろう。小百合はほっとして、夫が出してくれた蕎麦湯の湯呑を手に取った。気が利く人だ。あとは蕎麦打ちだけ飽きてくれれば完璧なのに。そう思った。


 興信所に依頼してから一か月。思ったより早かった。封筒の中にはダブルクリップで留められた書類の束。緊張でページを捲る手が微かに震えた。

 はじめの三分の一程は、工藤から借りた報告書と内容はほぼ同じだった。日付もかなり古い。一ノ瀬もこの興信所を使っていたのだろう。見覚えのある内容が書かれたところにも念のため目を通し、ページをを捲ると、新しい記載があった。

『C』という組織が出来たのは、三十年近く前。元々は小さな山村の鎮守社のようなものだったようだ。祭神は『禍津日神まがつひのかみ』。黄泉の国から逃げ帰った伊邪那岐命いざなぎのみことみそぎを行った際にけがれから誕生したとされる二神ふたはしらである。わざわいをもたらす悪神であるが、過ちに対して罰をもたらし正させる神、人を裁く裁判の神とも言われている。

 報告書には、御神体は社の中ではなく、神社近くにある洞窟にまつられているのだと書かれてあった。貢が迷子になった洞窟の事ではないだろうか。危険だという理由で立入禁止だったと聞いたが。

 添付されていた写真を見ると、洞窟の入り口には注連縄しめなわが張ってある。間違いない。そう思った。貢は聖域に足を踏み入れたのだ。

 ページを捲ると、『C』についての説明があった。自死を願う若者の悩み相談のような事をしていた団体であったが、六年前のある日を境に活動を休止している。突然電話が通じなくなり、私書箱も解約されたのか、手紙は宛先不明で返送されたという。ウェブサイトに類するものは無かったため、ネット上ではあまり信頼するに当たらない噂話があるだけだったという。

 最後に、彼らが捜しているものについて言及があった。

比売神ひめがみ』、そう書かれていた。

「ひめがみ……?」

 禍津日神は、八十禍津日神やそまがつひのかみ大禍津日神おおまがつひのかみ二神ふたはしら。片方を主祭神とするなら、もう片方を姫神と考えて良いのだろうか。神話の神の性別は曖昧だが、八十禍津日神は瀬織津姫せおりつひめと同一という説もあるので、女神であると考えていい。

「だから、何?」

 そうなのだ。姫神を探しているのなら、なぜ貢なのだ。そもそも神を探すとは何だ。御神体が盗まれたとでも言うのか。

 溜息を吐いて書類を放り出した時。

──中に居るんだろう。

 桐子から聞いた言葉が突然脳裏によみがえり、背中が冷たくなるのを感じた。

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