第21話 テセウス

 水曜日が来てしまった。

 心配事の片方は綺麗に片付いたわけだが、今度は貢と気まずい。先週はランチの誘いを断り、休日に古書店巡りをする約束も直前でブッチしてしまった。怒っているだろうか。あきれているだろうか。それとも、気にもしていないのだろうか。

「おはよう」

 三番の「気にもしていない」が正解だったようだ。そうなのだ。貢は桐子に対しては、何故か空気のように接する。それが嬉しくて、そして切なかった。

「おはよう」

 挨拶だけを返し、テキストを机に広げる。ノートが見つからない。講義が始まってもごそごそしている桐子を気にしている様子だった貢が、堪りかねたように小声で話しかける。

「まだ怒ってるの?」

 それ、女の子に言っちゃいけないセリフだ。大概は「怒ってないよ」と返され、雰囲気はもっと悪くなる。男子諸君には憶えておいて欲しい。

「怒ってなんかない」

 そう返して、ノートを探す。家に忘れてきたのだろうか。

「あった」

 鞄の底で丸まっていたノートを見つけ出し、机の上に出した時、小さな封筒が引っ付いてきたのが見えた。従弟に貰ったサソリの卵だ。

「何これ。サソリ?」

 小さな声で言いながら、貢がそれを手に取った。止める間もなく封筒の口を開ける。巻いてあった五円玉のサソリが暴れ出し、封筒は貢の手の中で激しく振動した。

「うわあ!」

 悲鳴を上げて立ち上がった貢に、皆の視線が集中する。封筒の振動が止まるのを確認してから恐る恐る顔を上げた貢に向かい、またしても半眼の小島教授が口元を引きつらせた。

「そこの二人。あとで学長室へ来るように」

 私も?



「あなたのせいで私までしかられるじゃない」

「元はといえば、きみのせいだろ。何であんなもの持ってたんだよ」

「従弟に貰ったのよ」

 閉じた扉の並ぶ静かな廊下を二人並んで学長室へ向かいながら、桐子たちは不毛な言い争いをしていた。最悪の場合は単位を落とすかもしれない。貢に至っては留年の可能性すらある。腹が立つやら申し訳ないやらで、冷静になれない。


「よく来たわね」

 小百合は意外にも穏やかに迎えてくれた。ソファを勧め、お茶をれてくれる。

「ごめんなさい」

「申し訳ありませんでした」

 立ったまま頭を下げた二人を見て、小百合は先程没収したサソリの卵を取り出し、テーブルに置いた。

「懐かしいわね。私の若い頃にもあったわ。学校の近くに面白い喫茶店があってね。そこで売られてるのを見たことがある」

 店の中には少々怪しげな雑貨が所狭しと飾られており、メニューには小さな金魚鉢に入ったパフェや、ト音記号の形にじ曲がったストローが刺さったソーダなどがあったのだという。便器の形の皿に入ったソフトクリームもあったそうだ。

「さすがにそれは注文しなかったけど」

 そう言って、小百合は笑った。

「アン・リーブルのオーナーは、喫茶店の店主の娘さんなの。ディナーのメニューは面白いわよ」

 本の形をしたパンを思い出す。ディナーのページは値段だけ見てすぐに閉じてしまったから、ちゃんと見ていなかった。

「今度連れて行ってあげるわ」

 そう言った後、小百合は急に表情を引き締めた。

「ところで」

 途端に緊張が走る。目を伏せた桐子の耳に、予想と異なる言葉が聞こえた。

「最近は、何か変わったことはない?」

 例の図書館のことを話しているのだと気づくまで、少々時間がかかった。すっかり忘れていた。もちろん、あれからは何も起きていない。

 貢も暫くキョトンとしていたが、「特に何も」と言って首を傾げる。少しだけ表情が曇ったのが分かった。

「それならいいけど」

 小百合は安心したように息を吐き、ポットから紅茶を注いだ。ふくよかな香りが部屋中に満ちるようだ。カップに添えられた砂糖は、薔薇の形をしていた。



「命拾いしたね」

 学長室からの帰り。人気のない廊下で、貢は呑気にそう言う。

『何かあったら、すぐに連絡してね。特に秋山さん、危険だと思ったらすぐ逃げなさい』

 教授はそう言った。事態は桐子が思っているより深刻なのだろうか。いったい、何が起きているのだろうか。

「古書店で絶版本を見つけたんだ。今度見せるね」

 自分の身に起きたことを、彼はどれぐらい憶えているのだろうか。あんなに怯えていたにも関わらず、今は取るに足らない事だと考えているのだろうか。もしくは。無理にそう思おうとしているのだろうか。


「よう」

 突然後ろから低い声で呼び止められ、桐子は足を止めた。

──え?

 廊下には誰もいなかった筈だ。扉の開く音も聞いていない。なのに、後ろに誰かいる。

 振り向くのが怖かった。気付かなかった振りをしよう。咄嗟とっさにそう考え、貢の腕を掴んで先に進もうとした。しかし遅かった。おもむろに振り返った貢の表情が強張るのが見えた。

 図書館で見た男が立っていた。端正な顔立ちだが、その眼差しは背筋が凍るようなものだった。怖くて動けなかった。身体が固まったように感じた。

 男は大きな手で貢の首を掴み、顔を覗き込んでいた。

「出てこないなら、この身体、引き裂いてやっても良いんだぜ」

 そう言ってわらった口元から、刃物のような犬歯が見えた。

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