第12話 小島教授
ある日の午後、それは起きた。
「秋山さん?」
図書館で自習していた時だった。目の前に影が差したと思ったら、柔らかなコロンの香りがした。女性の声。聞き覚えがあるような無いような。そう思いながら顔を上げた桐子は、驚いて椅子から転げ落ちそうになった。
──学長!
七十代とは思えない若々しい姿。包み込むような優しい笑顔。この大学の学長であり貢の祖母である小島
「やっぱりそうね。やっと見つけた」
そう言いながら、小百合は桐子の前の椅子を引いて腰かけた。ふと辺りを見回し、図書館であることに気付いたのか、声を
「先日は、孫がお世話になりました」
頭を下げられ、慌てて立ち上がって礼を返す。脇の下が汗ばむのを感じた。
「家にお誘いするよう言ったのだけれど、断られたって言ってたから」
小百合は気遣うように桐子を見て、身振りで座るよう促してから言葉を継いだ。
「あの子が失礼な物言いをしたのかしら。だったらごめんなさい。決して悪気はないのよ」
「いえ、そんな事は!」
つい声が高くなり、慌てて口を押える。
「お礼して貰うような事はしていませんので。タクシー代も
しどろもどろで返答すると、小百合は、はんなりと笑った。あの夏の日に会った貢の母親に似ているなと思った。
「ぜひ御招待したいの。いらして下さらない? あなたとお話がしたくて」
見た目からは想像できない、この押しの強さは何だ。何も言えないまま、桐子は彼女の顔を見詰めた。
「明後日の土曜日。正午にお待ちしています。必ずいらしてね」
満面の笑みでそう言われ、桐子は頷くしかなかった。
大学からほど近いところにある貢の家は立派な日本家屋で、庭には梅の花が満開だった。紅と白、そして薄桃色の小さな花が、とても綺麗だ。
「いらっしゃい。よく来てくれたわね」
ゆったりしたワンピースに身を包んだ小百合の隣で、少々落ち着かなさそうに貢がこめかみを掻いていた。通されたダイニングのテーブルの上には、沢山の綺麗なサンドイッチやサラダ、ローストビーフの横に何故か、ざる蕎麦が置かれていた。
「主人が蕎麦打ちに凝っているの」
その声を合図にしたかのように、キッチンから白髪の男性が姿を現した。こちらも上品な紳士という感じだ。
「ごゆっくり」
そう言って笑うと、紳士はまたキッチンに入って行った。
ご両親は不在なのだろうか? そう思ったのが顔に出たようで、貢は中学一年生の時に両親を事故で亡くしたのだと説明を受けた。遠い記憶の中の、優しい微笑がよみがえる。あの人はもう居ないのだと思うと胸が痛んだ。
「改めて。貢を助けていただいて、ありがとうございました」
席に着くと、小百合はそう言って丁寧に頭を下げた。
「いえ、そんな」
立ち上がった拍子に椅子を倒しそうになったのを、横から貢が支える。
「二度も助けてもらったのよね。本当にありがとう」
あまり礼を言われると、
桐子が知っている麺より色白の蕎麦は、とても美味しかった。サンドイッチのお供はビーフシチューではなく、牛肉の赤ワイン煮というのだろうか。いや、こちらがメインか。
「あなたはアリアドネみたいね」
図書館で出会ったときの話をしたら、そんな風に言われた。
アリアドネはギリシャ神話に出て来る女性だ。英雄テセウスが怪物ミノタウロスを討つ為に
「貢、片付け手伝ってくれ」
キッチンから声が掛かり、立ち上がろうとした桐子を、小百合が押しとどめた。
「片付けは男性陣に任せましょう。紅茶をいかが?」
優雅にそう言って、場所を変える。リビングのテーブルには、既に紅茶の準備が出来ていた。淡いピンクのネイルが施された小百合の指が、ティファールのスイッチを入れる。
「あの……」
お客様然としているのが申し訳なくて落ち着かない桐子の前で、ふと小百合が声を
「お聞きしたいことがあるの。あなたが図書館で見た事、話してくださるかしら」
言われて、
「あの子、何も憶えていないって言うのよ」
──え?
「ただ、とても怖かったって、そう言うの」
では、あの男は恋人ではなかったのだろうか。ならば何なのだ。カツアゲ? ストーカー? どれも当てはまらないような気がした。それに。
そう。あの男は消えたのだ。ほんの一瞬、目を離した隙に。出口のない
「あの……」
桐子の話を聞いた後、暫く小百合は黙り込んだ。「大男」「愛おしそうに」「消えた」時折り単語を口にする。その表情は険しくて、桐子は直視することが出来なかった。話して良かったのだろうか。何かとんでもない失態を犯したような気がした。
この事は忘れてくれと言われた。元より誰にも話すつもりはない。
貢が戻って来ると小百合は笑顔になり「ケーキを食べましょうね」と言った。
その後は、他愛ない話をした。キャンパスライフについて。教養課程の履修科目について。来年度に法学概論を受講する話をしたら、小百合はとても喜んでくれた。
帰り際、「貢をよろしくね」と言われた。
真剣な表情に見えたのは、気のせいだろうか。
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