第7話 宝箱には鍵を

「ねえ、どうだったの?」

 いつものカフェテリアの片隅かたすみ。みどりが我慢しきれない様子で、そう尋ねた。

「え、何が?」

「デートに決まってるじゃない。高そうな店だったから、偵察には入れなかったけど」

 安い店なら付いて来るつもりだったのか。

「美味しかったよ」

 デザートのシフォンケーキの横には、沢山のフルーツが添えられていた。イチゴ、グレープフルーツ、白桃、シャインマスカット。

「脈はありそう?」

 尋ねられて、桐子は首を傾げた。分からない。いまいちキャラがつかめないのだ。

 押し付けの模範解答に反撃するように、真っ直ぐ手を上げていた凛々りりしい姿。図書館で見た情けない様子。トーストで出来た本を開く、期待に満ちた表情。

 最近どんな本を読んだか聞かれて、初めて大学の図書館で借りた本を答えた。彼も同じ小説を読んだことが分かり、感想を言い合った。

 主人公の若い女性は死刑囚。罪状は、余りにも自分勝手な動機の殺人事件。彼女が今までに犯した罪の数々をマスコミは暴き立てる。けれど視点をずらしてみれば、彼女には何の悪意もない。たまたま降りかかった不幸、誤解、そして冤罪えんざい。誰かに必要としてもらいたい。それにしか自己の存在理由を感じられない哀れな女は、甘んじて誰かの罪を被ろうとする。極刑から逃れられる最後のチャンスがあったにもかかわらず、苦痛に悲鳴をあげる身体を押さえ付け、彼女は死ぬために立ち上がる。

 主人公が自分に似ているように思えた。自分の存在意義が曖昧で、誰かの役に立つことでそれを埋めようとする、ある意味一方的な思い。私はここまで弱くも、また強くもないと思うのだけれど、彼女の気持ちだけは分かる気がした。

 貢は主人公を笑わなかった。愚かな女と突き放すことをせず、優しい視点で見てくれていた。それが何故か嬉しかった。

 胸の奥に湧いた、淡い感情を何と呼べばいいのだろうか。素敵だと思った。好ましいと思った。けれど。

「無さそう」

 もともとそういうつもりではないのだ、お互いに。

「次の約束とかは?」

「約束も何も。御礼はしてもらったから、それで終わり」

 自分の言葉に納得するとともに、何故か少し悲しくなった。もう貢と話すことは無いだろう。理由もなく、そんな気がした。

「ふーん」

 少し残念そうに、少し安心したように、皆が頷く。

「まあ、凍死する前で良かったのかも」

 誰かがそう締めて、話題は冬休みの旅行に切り替わった。


 氷の王子が桐子など相手にする筈がない事は分かっている。

 それに桐子は恋愛には少々不器用だ。高校時代に付き合った男の子もいたけれど、結局は続かなかった。桐子の方から積極的に歩み寄ろうとしなかったからだと思う。

 彼と親しくなりたいと思うのは図々しいだろうか。自分の好きなものについて語り、共感しあえる喜びを感じたのは、初めてかもしれない。心の底にある思いを打ち明けるように感想を伝え、少し深読みした考察を披露する、秘密を共有する者のような近しい感覚。探していたものに巡り合ったような気がした。

 思い上がった考えだろうか。そんな願いは、受け入れられるものではないのだろうか。



 その後、連絡がないまま、一か月が過ぎた。クリスマスが近い。

 風は冷たくなり、日が暮れるのが早くなった。GUで冬物のセールをしているから行こうという誘いを断り、桐子は閉店間近のカフェテリアでカフェオレの紙コップを手にしていた。

 たまに一人時間が欲しくなる。誰にも話しかけられない、自分だけの時間。何をするでもなく、ただじっと窓から外を見る。透明な硝子がらすで出来た、内と外が切り替わる境界の微かな揺らぎを見ながら、意味のない空想に耽るのだ。

 窓の外の空気の色は、透明に近い淡いブルーから、急激にトーンを落として行った。さっきまで外がはっきり見えていた筈なのに、室内の風景がそれに取って代わろうとしている。

 切り取られた空間に、ひらりと一枚の枯葉が落ちた。どこから飛んできたのか気になって目を凝らすと、灯り始めた街灯の下に、見覚えのある学生の姿が見えた。コートの襟を立て、サッチェルバッグを背負って。長めの髪がさらさらと揺れていた。

 貢は数人の男子学生と一緒だった。穏やかな表情で何か話している。ふと、こちらを見たような気がして、桐子は硝子越しに軽く手を振ってみた。けれど、彼が気付く様子はなかった。恥ずかしくなって手を降ろし、周りを伺ってみる。カフェテリアに客の姿はなく、桐子は誰も見ていなかったことに安堵した。 

 教えた電話番号は、もう消されてしまったのかもしれない。

 想い出は封印しようと思った。

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