第8話 脱出の呪文
二月のある日。珍しく朝からうっすらと雪が積もっていた。朝一番で大学に来たものの一限目が休講になり、桐子は開店したばかりのカフェテリアで時間を持て余していた。
ふと思い出して、鞄から小さな封筒を取り出す。正月に帰省した時に、小学生の
『桐子ちゃん。はい、これ』
『え、何?』
掌に載るほどの小さな封筒。茶色く固い紙で出来たそれには、
『面白いから、あげる。お土産なんだ。これ説明書ね』
渡された紙を見ると、幾つかの国の言葉で説明書きがある。日本語の文章は、少々ホラーっぽい文字で書かれてた。
『サソリの卵。煎じて飲めば美容に効果絶大ですが、気温の高い場所に長く置くと孵化します。ご注意ください』
『ありがとう』
叔父が出張で砂漠の国へでも行ったのだろうか。シャウエンの青い町並みだったら、私も見てみたい。そんな事を思いながら封筒の口を開いた桐子は、中で何かが暴れるような音を聞いて悲鳴を上げた。テーブルの上に落ちた封筒がバリバリと音を立てて動き回る。暖房の効いた部屋に置いてあったから。そう考えるとぞっとした。
椅子から立ち上がった桐子を見て、従弟が封筒に手を伸ばした。
『駄目よ。刺されたら……え?』
子供らしさを残した手が封筒を取り上げ、中身をテーブルに出す。凹字型のボール紙に輪ゴムで繋がれた五円玉が、数回廻って動きを止めた。
『何これ?』
いたずらグッズだ。しかも手作りの。
開いた口が塞がらない桐子の前で、彼は『びっくりした?』と嬉しそうに笑った。
従弟は小学六年生。あの頃の桐子たちと同じ年齢だ。
──また思い出してる。
自分を嗤いながら、桐子は五円玉に繋いだ輪ゴムを捩じると、そっと封筒に戻して封をした。
突然、テーブルに振動が響いた。五円玉のサソリが暴れたのかと封筒を押さえ、違うことに気付く。スマホが震えているのだ。電話である。見覚えのない番号だったが、慌てていたのでうっかり出てしまう。
「もしもし」
すぐに返事はなかった。無音に近い状態が続く。いたずら電話だろうか。切ろうとした時、微かに声が聞こえた。
「……助けて」
「え?」
今、助けを求める声がした?
「誰?」
問いかけると、微かな息遣いが返ってくる。
「秋山さん……」
震える声が、桐子の名を呼んだ。え? この声って。
「一ノ瀬です。助けて。出られなくなった」
話を聞くと、どうやら、また図書館で迷ったらしい。助けに行ってやろうと立ち上がった時、少々悪戯心が
「脱出の方法を教えてあげるわ。いい? よく聞いてね」
桐子は言った。「うん」という素直な返事が返って来る。
「姿勢を正して、天井を見上げて」
「こうかな?」
「深呼吸して」
スー、ハーという呼吸音が微かに聞こえる。
「大きな声で『リレミト』って唱えるの」
「リレミト! ……え?」
「御武運を祈ります」
電話の向こうで「え~!」という声が聞こえた。
「冗談。すぐに迎えにに行くから、動かないで待ってて」
放っておかれた仕返しに少々虐めてから、桐子は急いで図書館に向かった。相手からしたら、仕返しされる
図書館の何処にいるのか尋ねても無駄だと思ったので、とりあえず廊下を一廻りすることにした。窓から入る陽射しが弱いせいで中は薄暗い。外側の通路を
角を曲がったところで、前方に人影が見えた。駆け出そうとした足が、ふと止まる。
貢は一人ではなかった。もう一人男性がいた。かなりガタイが良い。それなりに背が高い貢よりも頭一つ大きいその男は壁に手を付き、何だろう、追い詰めているような……。
俯いた貢の顔は髪に隠れて見えない。大きな手がその
──ああ、そうだったのか。
いわゆる「壁ドン」だ。貢は「そっちの」人だったのだ。だから女の子に興味がない。氷の王子は、そういう意味だ。QED証明終わり。
何となく腑に落ちたような気がして、桐子は
振り向いて、違和感を覚えた。
壁際に
──消えた?
そう思わずにはいられなかった。この廊下にある扉は、桐子の背後にある一つだけだ。向こう側は行き止まり。そんな馬鹿な。
「大丈夫?」
駆け寄って声を掛ける。貢の顔からは血の気が引き、微かに震えているようにも見えた。
「どうしたの」
答えはない。焦点の合わない彼の瞳は、ただ虚空を見詰めていた。
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