第6話 アン リーヴル

「お待たせしました」

 十二時半を少し廻って現れた貢は、スカート姿の桐子を見て「何か雰囲気違うね」と微笑んだ。時刻を見て「遅れてごめん」と言う。

「二限目の時間がずれ込んでしまって」

 走って来たらしく少し息が上がっているのに気付き、桐子は「私も今来たところだから」と、定番のセリフを口にする。あれ?

「二限目って、学長の講義よね。こないだの件は考慮してもらえたの?」

 レポートにしてもらえたのだろうか。それなら良かった。そう言いかけた桐子を、貢の苦笑が遮った。

「いや、今年は諦めて、来年また頑張ることにした」

 そうか。駄目だったんだ。でも、だったらどうして。

「それを理由に受講をさぼったら来年も落とすって、おばあ……教授に釘を刺されたんだ」

 今、お祖母ちゃんって言いかけた。学長の孫だというのは本当なんだ。何となく少し距離が出来たような気がした。


 貢に連れて行かれたのは、学生には少し贅沢に思える洒落たフレンチの店だった。大学の近くにはあるけれど、学生向けというよりは教員を客層として狙っているのかもしれない。

「バイト料が入ったところだから今日はリッチなんだ。一人では入りにくかったから、ちょうど良かった」

 好きなものを頼んで、と言いながら、貢はメニューを覗き込む。頬に睫毛まつげの影が落ちているのを、ついつい凝視ぎょうししてしまい、桐子も慌ててページをめくった。

 ディナーのページはゼロの数が一つ多かったけれど、ランチメニューは意外にもお手頃価格で、桐子は少し安心した。

「何のバイトしてるの?」

 桐子は尋ねてみた。今どきは投資なんかをしている学生もいるが、彼もそうなのだろうか。

「出版社。下働きみたいなもんだけどね」

「へえ」

 意外だった。どんな仕事をするのだろう。

「コピー取りとか、手書き原稿のワープロ打ちとか」

 本は好きかと尋ねられて、桐子は素直に頷いた。最近は忙しくてあまり読めていないが、読書は数少ない趣味の一つだ。後はアニメとゲームぐらい。オタクのレッテルを貼られそうだが、これといって他にないので仕方がない。

「書店を守るために電子書籍にはしないっていう作家さんもいるけど、スマホで読めるものが多くなってきてるよね」

 そう言えば最近は電子書籍を購入することも多くなった。嵩張かさばらない上に値段も少々安かったりするから助かるのだが、確かに書店としてはつらいところかもしれない。

「連載をしている年配の作家さんでね、一人だけ未だに原稿用紙に万年筆っていう人がいるんだけど、その人がまた酷い悪筆あくひつで、漢字を読むのが一苦労なんだ」

「そうなんだ。それは大変」

 理学部にも極端に字が汚い教授がいる。前期試験のときホワイトボードにドイツ語で問題が書かれた。皆が慌てて辞書を開いた時、一人の学生がぼそっと呟いたのだ。

『おい。もしかして、あれって……漢字じゃね?』

 その話をしたらウケた。二人して笑っている内に、緊張がほぐれていくのを感じた。

 スープとサラダを食べながら、本の話を沢山した。幼い頃に読んだ童話集。夏休みの課題図書。子供向けに優しく編集されたものしか知らなかった海外文学を、大人になって読み直して驚いたこと。先が気になって徹夜で読んだ話題の本。一度に読み切ってしまうのが勿体なくて、途中で閉じた短編。受験のたびに読書から離れて、また戻って来て。その度に広く、大きくなっている活字の海。

 彼の考察の、思いがけない切り口にワクワクする。こんな感覚は久しぶりだ。共感しあう事が多くて、仲間が出来たように思えた。

「お待たせしました」

 店員が、二人の前に皿を置く。ハンバーグの横に添えられた薄いトーストが、本の形にしつらえられていた。そう言えば、この店の名前は『un livre(アン リーヴル)』。フランス語で本という意味だ。男性名詞用の冠詞が付いているのが面白い。

洒落しゃれてるね」

 貢は、パンで出来た小さな本をフォークで開いた。中にはバターが塗られているだけだ。何を期待していたのか、残念そうに表紙を閉じる。桐子の視線に気づいて、こめかみをく姿に、昔の面影が重なった。

「変なこと聞くけど、小学校は、どこだった?」

 桐子は思い切って尋ねてみた。一拍置いて返って来た答えを聞いて、間違いないと確信する。

「じゃあ、六年生の時、サマースクールの説明会でコンセンサスゲームのビデオを見たの、憶えてる?」

 心臓がドキドキした。憶えているだろうか。思い出してくれるだろうか。あの夏の日、ほんの少しだけ言葉を交わした女の子の事を。

「一人だけ『店員が悪い』に手を上げて『先生』をやり込めてたでしょ」

 貢は首を傾げていたが、暫くして小さく「ああ」と言った。

「コンビニの泥棒の話だったっけ。もしかして、きみもあそこに居たの? 偶然だね」

 桐子は、喉まで出ていた言葉を呑み込んだ。大切なことは、簡単に口にしてはいけない。何故か、そう思った。

「あの頃は、怖いもの知らずだったなあ」

 昔をなつかしむようにそう言う彼に、帰り道のことは言えなかった。憶えていないと言われることが怖かった。オーガンジーの薄い布に転写された記憶が破れてしまわないように、桐子は小さく笑うだけにした。この話は、これで終わりにしよう。

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