第5話 氷の王子

 金曜四限目の心理学概論は、大教室での講義である。桐子は後方の窓際に席を確保した。すぐ側にある窓からは、図書館の裏庭に続く小道が見える。

 桐子は窓際の風景が好きだ。窓をはさんだ中と外、同時に視界に入るわずかな空間は、その先に広がる見た事のない世界を想像させる。部屋の中には何があるのだろう。窓の外には、どんな風景が広がっているのだろう。

 残念ながら視線を少し動かせばそれは消えてしまう。入口近くの壁に、何処からか反射した日光が集まっているのが見えた。集積した光は、柔らかな日差しを集めたとは思えない強さで、そこに存在していた。その横にはスクリーン。偶然にもコンセンサスゲームの説明が映し出されていた。「チーム内でコンセンサス(意見の一致)を得ることの難しさと大切さについて体験を通じて実感できるゲーム」とある。

──コンセンサスゲームはね、正解が有ってはいけないのよ。

 記憶を辿たどってみる。あの子なのだろうか。いや、ただの同姓同名かも。けれど、名字も名前も少々珍しいし年齢も同じだ。思い返せば確かに綺麗な子だった。面影があるかもしれない。それに、あのサラサラの髪。けれど……。

 記憶の中のりんとした姿と、図書館で迷子になって半べそをかいていた姿のギャップがありすぎて、桐子は混乱していた。逆なら分かる。泣き虫だった幼い子供が大人になってシニカルな一面を見せる。映画にありそうだ。けれど逆なのだ。同一人物だと思いたいような思いたくないような、妙な気持ちを桐子は持て余した。

──法学部の一回生って言ってたっけ。

 彼が「落とした」となげいていた水曜二限目の授業とは何だろう。何故か気になって、桐子はスマホを取り出して学生ポータルからシラバス一覧を調べてみた。

「うわぁ、これって……」

 法学部の必修科目。学長である小島小百合教授が直々に講義を受け持っている噂の一コマである。教職課程の科目でもあるので桐子は来年履修する予定だが、出欠確認が厳しく、月一で実施される試験に全て合格しなければ単位は貰えないという話だ。

 確かに頭を抱えて蹲りたくなるかもしれない。急に可哀想に思えて、桐子は意味もなくスマホに向かって手を合わせた。

──ご愁傷さまです。

「何やってんの?」

 隣の席から友人の堀田みどりが声を掛けて来た。友人たちが、その後ろに並んで座っている。フランス語と心理学概論は、いつもこのメンバーと一緒になるのだ。群れることを好まない桐子だが、学部の違う彼女らとは妙に気が合った。

 後方の席なので大声を出さなければ教卓にはまず届かないが、桐子は「しーっ」と人差し指を唇に当てた。図書館の癖がついているようだ。

「なに、してんの?」

 今度は声を顰め、みどりが再度尋ねる。

「何、シラバス? もう来年のカリキュラムの計画? 真面目~」

「桐子は教職取るんだっけ。理系だと調整難しいよね」

 桐子の所属する理学部では教養課程で取得しておかねばならない科目が多く、実験等で拘束時間こうそくじかんも長い。教職に必要な科目を隙間すきまに詰め込むためには、かなりカリキュラムの調整が必要になってくるのだ。

「今年一つも落とさなかったら大丈夫なんだけど」

 適当に話を合わせながら、桐子はスマホの画面を閉じた。講義に集中しよう。そう思った途端、机の上でスマホが震えた。ショートメールの受信だ。振動が机に響くので慌てて取り上げ、画面を開く。メールのタイトルには「一ノ瀬 貢」とあった。

「え?」

 声を発したのは桐子ではなく、みどりだった。

「これって法学部の一ノ瀬くんよね。桐子、知り合いなの?」

 少々声が上ずっている。桐子は再び「しーっ」と窘めてから、画面に目をやった。

「まあ、知り合いっていうか」

 ショートメールを開くと、『先日はありがとう。来週の水曜日、時間取れますか? 大学の近くに最近オープンしたお店があります。ランチでもいかがでしょうか。デザートのシフォンケーキが美味しいそうです』とあった。みどりが「キャー」と声を立て、周りからにらまれておがむようなポーズをとる。

「デートの誘いじゃん。桐子、よくやった。羨ましすぎてく気にもならない」

 後ろの席の友人たちも、うんうんと頷く。急に気温が上がったような気がして、桐子は急いで画面を閉じた。

 授業の合間に小声で説明してくれたところによると、彼はかなりの有名人らしい。

「氷の王子って言われてる。多くの女たちが凍死したって聞いたわ。超クールなんだって」

「クール?」

 全くイメージが湧かない。いや、確かに小学生の時の雰囲気なら、そう言えないこともないけれど。もしかして二重人格? それとも一ノ瀬貢という学生は二人いるのだろうか。同姓同名でイケメンの。そうかもしれない。いや、きっとそうだ。

 そんな訳あるかい!

 授業にまったく身が入らないまま四限目を終え、桐子は友人たちと一緒に階段教室を後にした。

「返事した? 早くしないとチャンスを逃しちゃうわよ」

「そうそう。ライバルは山ほどいるんだから。でも、まさか桐子がねえ」

高嶺たかねの花だと思ってたけどなあ。桐子、数年後は玉の輿こしかも」

 友人たちは自分の事のように盛り上がり、このまま夜の街にでも繰り出しそうな勢いである。

「玉の輿って何?」

 桐子は尋ねた。金持ちの息子なんだろうか。昔見たリメイク版のアニメでそんなキャラクターがいたような気がする。普段は格好良いけれど閉所暗所に弱い。名前は、確か……。

「知らないの? 学長の孫だってうわさよ」

「ええ?」

 驚いた。学長の孫だという事よりも、彼は自分のお祖母ばあさんの講義を落としたのだという事に。

 気の毒だ。可哀想だ。だから、笑ってはいけない……。


 前祝いに飲みに行こうという誘いは断って、とりあえず了解のメールを送った。お互い三限目が空いていたので、十二時半に正門前で待ち合わせすることになった。自分の事を憶えていてくれるだろうか。微かな期待があった。こないだはバタバタでゆっくり話をしていなかったから、明日は昔の話を匂わせてみよう。気分が浮き立っているのに気付き、自嘲の笑みが漏れる。デートの誘いだなんて思ってはいない。あくまでも迷路から救い出したお礼だ。でも。

 何を着て行こう。メイクは……。恋する乙女のような気分で布団に転がり、またそんな自分が可笑しくなる。何やってるんだろう、私。

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