第42話 自由人

「――」


 有紗の顔がリンゴやさくらんぼのように真っ赤になっていた。珍しく動揺している。



「――て、てお。あんま、みないで」

「嫌だ」


 彼女が手で自分の顔を覆い隠そうとして、俺はその腕を掴んだ。……強くは掴んでない。だけど、有紗は無理に隠そうともしなかった。



「……ずるいよ」

「何がずるいんだ? 有紗」

「そ、それ。だめ。名前呼ばれると……嬉しくて、頭おかしく、なりそうだから」


 嫌がっている……のではなく、恥ずかしがっている。

 顔を真っ赤にして背けようとするものの、口元が緩もうとしているのが見えた。我慢しているのか、もにょもにょと動いている。



「俺は有紗に我慢して欲しくない」

「……!」

「その、今まで色々言ってきたけど。俺は、自由な有紗が好きだから。……我慢、して欲しくないんだ」



 近くで彼女に伝える。自分の気持ちを全てぶちまける。


「……分かってる。今まで言ってきた事と矛盾してるって。それは、ごめん」


 有紗が顔を真っ赤にしながらも、ふるふると小さく首を振った。


「気にしない、というか、気づいてたから。テオが嫌がってないのは」

「ありがとう。それで、先生からあの注意があって……本当に我慢してる有紗を見て、改めて嫌だって思った。有紗には好きな事をして欲しい。有紗が心の底から楽しんでる姿が、俺は好きだから」



 今まで言葉にしていなかった。だけど、それじゃダメだと思った。

 有紗に褒められて、『好き』だと言われて嬉しかったから。



「俺はこれからは好きなら好きって言うし、有紗が喜ぶかもって思った事は好きにする。……だから、有紗も好きにして欲しい」



 そのカラメル色の瞳が収縮する。心の揺れを示すように。


「……ダメ、だよ。テオ。そんなこと、言われたら――」



 揺らぐ瞳は確かに俺を見つめていて。ぎゅっと、手が強く握られる。



「我慢、出来なくなる」

「俺は我慢しない有紗が好きなんだよ」



 そう返した瞬間、




「……テオ。ううん、飛鳥」


 気がつくと、彼女に抱きしめられていた。



 そして、彼女は唇を重ねてきた。

 少し乱暴で、歯が当たる。それでも彼女は気にしない。俺も気にならない。



 口の中に直接甘いものが入ってくる。彼女の匂いが強くなって、ただそれを受け入れた。

 それが彼女の舌なんだと気づくまで、少し時間がかかった。



 更に一歩踏み込んだキス。

 脳が焼け付くような快楽物質を生み出していき、肺が、心が甘い物で満たされていく。



 何分、経ったのだろうか。時計を見て驚いてしまった。

 まだ一分しか経っていない。



 そこで唇が離された。透明な橋が架かり、彼女はもう一度唇を重ねてその橋を切った。



 カラメル色の瞳がじっと見つめてくる。



「……あーあ。もうこれ以上はないって思ってたんだけどな」


 その瞳には薄い膜が貼っていて、段々分厚くなる。でも、それが雫となって流れ落ちる事はなかった。



「もっと好きになっちゃったよ、飛鳥」


 腕に包み込まれ、抱きしめられる。

 それでも尚、その瞳の奥には情欲とは違う別のものが混じっていた。



「こういう事……ううん。もっと先の事、しちゃうよ?」

「いいよ。有紗なら。何をしても」

「……ふーん?」


 ぎゅっと、痛いくらい強く抱き締めて。



、どうなっても知らないよ」


 そう言ってきて。思わず笑ってしまった。



「いいよ。全部受け入れる」



 今まで言葉にはしていなかった。でも、選択肢としてはあってしまう。

 この階には誰もいないのだから。


「まだ、ここではこれ以上の事はしない。それは『自由』じゃないから」


 俺の言いたい事が分かっていたのだろう。

 そう返される事は知っていた。彼女がここでする事はないだろうと。



「空を飛ぶ鳥ってさ。よく自由を象徴する……っていうか。どこへでも行けるから自由ってよく言われたりするでしょ?」

「……ああ」

「だけど、その自由には制約がある。渡り鳥が飛んでいく方向には島があるように、鳥達は『止まる』っていう制約を持って自由を謳歌している。ずっと飛び続けられる訳じゃない」



 じっとその瞳に見つめられて。手を伸ばしてきて、唇を触られる。


「ルールを守ってこそ『自由』は輝く。私はそう思ってる。……だから、帰ってから。その方が絶対楽しい」

「……分かった」

「飛鳥は元々分かってたでしょ? ここでするっていうのは私らしくないからね」


 全て見透かされていて、思わず笑ってしまう。



 また強く抱きしめられて。彼女の声が耳をくすぐってきた。



「ずっと、飛鳥と再会してから思ってた事があるんだけどさ」


 なんだろうと思いながら、大人しく言葉の続きを待つ。


「運命って不思議だよね」

「……? どういう意味だ?」

「私のもう一つの名前。シャル……シャーロットって名前の由来、分かる?」


 名前の由来、か。そういえば彼女の方は調べた事がなかった気がする。



「“自由人”」


 その薄い桃色をした唇が言葉を紡ぐ。


「他にも色々意味はあったりするけど、お母さんに付けてもらったのはこれが由来なんだ」

「――そう、だったのか」

「うん。シャーロット自由人。私もお気に入りの名前。……でも凄いよね。飛鳥の名前は飛ぶ鳥って書く。自由の象徴だよ」


 こんな所で繋がりがあったとは思わなかった。それも、再会していなかったら気づけなかった事だ。


「ほんと、びっくりだね」


 楽しそうに笑う有紗。……ああ、そうだ。この顔。

 俺はこの笑顔が好きなんだ。



「ありがと、飛鳥。もう我慢しないから。全部受け止めてね」

「全部受け止めるよ。……俺の事も受け止めてな?」

「もちろん。どんなプレイでも、ね?」

「ま、またそういう事言って」


 ……いや、俺も我慢しないって決めたから。



「が、頑張って伝えるようにする」

「飛鳥がどんなの好きなのか私も勉強しなきゃ。後でPC貸してね」

「だ、ダメ。それはさすがにダメだから」


 さすがにそれは、非常によろしくない。


 焦る俺に反して、彼女は楽しそうに笑う。……この構図はしばらく変わらないんだろうな。


 それでも。


「有紗」

「……!」


 名前を呼ぶと、目を見開いて。顔が赤くなっていく。


 攻められるのには慣れてなさそうだから。たまには反撃する事が出来そうだ。


 と、そう思っていたのに。有紗はいきなり顔を近づけて――



「っ……」


 唇を重ねてきた。


 しかし今度は……その中のものは入ってこない。それに安心して良いのか、でも少しだけ残念な気持ちがあってしまう。


「これからは、私の名前呼ぶ度にちゅーするからね」

「……分かった。そのつもりでいとく」

「うん。それはそれとして、呼ばなくてもちゅーはするけどね」



 流れるようにまた唇を重ねられ……さっきからずっと心臓がバクバクと音を立てていた。



「は、話したい事はこれくらいだから。お昼も食べないといけないし、そろそろ行こうか」

「おっけ。……あ。最後にもう一回だけ言っておくね」


 有紗がピタリと足を止めて。耳元に口を近づけた。



「覚悟してね。……帰ったら飛鳥の事が大好きな気持ち、全部ぶつけるつもりだからさ」



 最後に小さくリップ音が鳴って、有紗は離れた。



 彼女の事を縛り付けるものはもう、何も残されていない。

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