第32話 琥珀とお返し
『ここに行って。ダッシュで。急いで』
その連絡が来たのは、シャルとの待ち合わせ場所に向かっている最中の事だった。マップも送られてきていて、ピンは路地裏を指している。それもかなり近い。
送り主は隼斗だ。
そういえば連絡先を交換していたなと思い出す。……彼にしては毎日連絡が来るとかもなかったな。なんなら交換してから初めて連絡してきたんじゃないか。
俺のそんな思考はすぐに切り替わり、気づけば走り出していた。
『流川さんが危ないから』
――その言葉を見てしまったから。
◆◆◆
「……この辺、だよな」
途中で路地裏に入り込んで、息を殺しながら走る。これも彼女と居た時に身につけた事だ。
その時、一匹の猫とすれ違った。ぶち模様の猫である。
その猫を見て――彼女が猫と戯れている場面が脳裏を掠めた。
その猫が来た場所へと走ると――声が聞こえてきた。聞き馴染みのある声と、男の声。
「おかしいな。尾けられてるなんて気づかなかった」
「はっ。そりゃそうだ。たまたま見つけてったんだからな。運が良いぜ、お前ら。こんなイイ女連れ込めるんだからな」
とっさに俺はしゃがみこんで姿勢を低くした。向こうの視界に入らないように。
男の数は三……いや、六。シャルが囲まれている形だ。
「はぁ。私の直感も
ため息を吐く彼女の声を聞きながら眼を瞑る。
……いや、考えるな。シャルのやりそうな事を感じ取ってアドリブで行け。
「テオ!」
後ろを振り向いて叫ぶシャル。
屈んでいる俺は視界に入っていないはずだ。ブラフを掛けたか――と、普通なら思うだろう。
俺は姿勢を低くし、走り出した。
「おっと。さすがに俺らを舐めすぎじゃねえか?」
「ッ――」
シャルの目論見が外れたって思ってるんだろうな。気を逸らしてその間に逃げる算段だと。
だけど。それはシャルという存在を舐め腐っているとしか思えない行動だ。
男はシャルを見てニタニタと笑っているようだ。後ろ姿で分かる。
「俺ぁ気の強い女ひぃひぃ鳴かすのが好きなんだよ。それにしてもイイもん持ってんじゃねえか」
「最低だね」
ああ。本当に最低だ。でも――
「……最低で助かったよ、ほんとに」
「ガッ……」
男の後ろにいた二人を突き飛ばし、殴るように、指を鉤爪状にして抉りとるように男の脇腹へと突き刺した。
そこは普段腕で隠れているため、予想外の痛みだろう。腹筋や背筋と違って鍛えるのも難しいしな。
……下心を丸出しにし、彼が最低であってくれたからこそ出来たことだ。
それはそれとして――俺はかなりイラついていた。剥き出しの下心をシャルへぶつけようとした事に。
「汚い手で俺の恋人に触れるな」
男の腕から力が抜け、シャルが離される。
「それと、舐めてるのはお前らの方だよ」
そう言いながらシャルの手を強く握った。
「逃げるぞ、シャル」
「――うん!」
そして俺達は走り出した。あの日をなぞるように。
◆◆◆
「ふふ……あははっ!」
「シャル、笑うのは良いけど前ちゃんと見てくれよ」
「分かってる、大丈夫だよっと」
狭い路地。俺とシャルが走ろうと思えばかなりぎちぎちだ。
そしてもちろん、障害物がない訳じゃない。シャルは捨てられていた段ボールをぴょんと軽く飛び越えた。
走る速さは衰えておらず……というか、割と本気で走ってる俺とほぼ同じ速度だ。
「逃げ足は鈍ってないみたいだな」
「もちろん。運動神経はあの頃より上がってるよ。……テオ!」
「問題、なし!」
俺の行く手を阻んだのは俺の腰くらいの高さもある洗濯機。多分この辺の住民が粗大ゴミとして一旦外に出してるやつだな。
俺とシャルが逃げる際、『絶対他人に迷惑を掛けない』という約束がある。物を壊したり傷つけてはいけない、というやつだ。もちろん人や動物も。
高く跳びつつも、壁や換気扇に当たらないように……そしてシャルの邪魔をしないよう身を捩り、着地をする。シャルがひゅうと口笛を吹いた。
「いいね、テオ。私じゃ胸がつっかえて出来なかったよ、多分」
「また突っ込みづらい言い方を」
そうして入り組んだ路地裏を駆けていく。
平地でも走るように駆けていく俺達を彼らが追いつける道理などあるはずがなかった。経験の差ってやつだな。
そして、この交差点を右に曲がってまっすぐ行けば大通りへ出る――はずだった。
交差点の真ん中に人影があって、俺とシャルはスピードを落とした。
隼斗だ。
「やあ。さすがだね。想定より三分早い。けどギリギリ想定内かな」
「シャル、さっきの所に――」
「待って待って、敵じゃないから。僕は君たちの味方だよ。……一瞬だけ話をしよう」
一瞬グルかという考えるが頭を過ぎったが、立ち止まる。シャルが目を向けてきて、一つ頷いた。
「ありがとう。まず二人はこのまま路地裏を抜けて欲しい。小葉が居るからバスに乗って話を聞いてくれ」
「……なんでだ?」
「悪いけど、そこまで話す時間はない。彼らの対処をしないといけないからね」
「ッ――」
一瞬、彼を纏う雰囲気が変わった。
――例えるのならば、床の上に散らばったガラスの破片のような。無造作に置かれている抜き身のナイフのような危うさであった。
シャルが手をぎゅっと握ってきて、一歩後ずさりそうになる。だけど、その時にはもう彼を纏う雰囲気は元に戻っていた。
「今逃げたところで、またどこかで君達が彼らと会ってしまったら危険な目に遭うかもしれない。僕としてもそれは避けたいんだ」
「……それはどういう意味だ、隼斗」
「それは小葉から聞いてくれ。それじゃあ行って、二人とも。君達の事は誰であろうと追わせないから」
ニコリといつものように爽やかな笑みを浮かべてくる。これ以上話す気はなさそうだ。
「……行こう、テオ」
「シャル」
「大丈夫だと思う。私の直感になるけど」
カラメル色の瞳がじっと見つめてくる。悩む時間は残されていなかった。
「……はぁ。シャルの直感を信じるよ」
「良かった」
「でも隼斗。……難しいかもしれないが、怪我はしないで欲しい。とにかく無理はしないでくれ」
「あっはっは」
俺の言葉を聞いて彼は笑った。
「怪我はしないで、か。君は本当によく似ているよ」
「……? 誰の事だ?」
「気にしないでいいよ。……承った。怪我一つしないで切り抜けてみせようじゃないか」
すっと彼は音もなく動き、一瞬で俺達の背後に回り込む。
「さあ、行ってくれ」
「……気をつけて、な」
「うん」
それを最後に走り出そうとしたものの、一度足を止めた。シャルがくすりと笑って、俺達は同時に振り向く。
「ありがとう、隼斗」「ありがとね、委員長」
彼はまた笑った。高らかに。
「はっはっは。……どういたしまして」
その言葉を背に俺達は走り出した。
◆◆◆
「……来たっ。二人とも、バスに!」
「有北委員長……」
路地を抜けるとそこに委員長が居て、タイミング良くバス停にバスが止まっていた。流されるまま俺達はバスへと乗り込む。
席に座ると、委員長がふうと息を吐いた。
「とりあえずこれで大丈夫。追いかけられる事はもうないだろうし」
「……えっと、委員長。どこかで警察に電話したいんですが」
「あー。待ってね。その辺は色々終わったらこっちでやるから」
彼女の言葉に眉をひそめてしまう。
「でも委員長、隼斗が――」
「大丈夫だよ」
俺の言葉を遮って、委員長は微笑む。
「
◆◇◆◇◆
「やあ。随分とピリピリしているね、君達」
「……んだ、てめえ」
彼はいつものように爽やかな笑みを浮かべ、手を振っていた。
イラついたように隼斗を睨みつける男。その後ろに居る五人も精神を張り詰めているように見える。
「まあまあ、そう怒らないでくれたま――」
「どけ」
迷う事なく隼斗をどかそうと、彼は押しのけようとする。
しかし、それは叶わなかった。
「人の話は最後まで聞くのが礼儀ってものだよ」
「……ッ、んだ、てめぇ、離、せ!」
「なら離れてごらん。出来るもんならね」
彼の腕を隼斗は自分の手で握り止めていた。男は力任せに手を引こうとするも、出来ない。
男は勢いよく蹴ろうとするも……それを彼はもう片方の手で軽く受け止めた。
「あ!?」
「ふふ。君、面白い格好になってるよ」
隼斗の笑みは大きくなり――楽しそうに笑い始める。
「――ふ、くく。あっはっは!」
「んだよ! ぶっ殺すぞ!」
「はっはっは! 殺せるのかい? そんな格好で」
男は手と足を受け止められ、間抜けな格好をしている。彼は顔を真っ赤にして後ろを見た。
「てめえら、こいつぶっ殺せ!」
その言葉を聞いて、隼斗は笑う。そして彼の手と足を解放した。
「ふふ。いいよ、全員でおいで」
その闇を練り混ぜたような瞳に、男達の背には冷たいものが走る。
「僕も久しぶりに昂っているんだ。少し踊ってあげよう」
彼らはそれが気のせいだと自分に言い聞かせ、隼斗へと襲いかかったのだった。
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