第28話 自由人と事故

「へえ。有紗に助けられたのが馴れ初めだったんだね」

「……そう、ですね。あ、ナン一つお代わり頂きます」

「どうぞ」


 夕ご飯はバターチキンカレーとナンであった。それも、かなり本格的なものである。


 出てきた時はめちゃくちゃびっくりした。専門店のものかと思ったくらいだ。


『向こう居る時にすっごい美味しいカレー屋さんがあって、どうしても気になったからお店の人にレシピを聞いておいたの』


 とはシャル母談である。凄まじい行動力だ。シャルはこの辺お母さん似なんだろうなと思う。


 肝心の味はというと、想像以上であった。



 口に含むと、口から鼻へとスパイスの香りが突き抜ける。

 とても刺激的な感覚に嗅覚が呼び起こされ、それを後からバターや牛乳などが包み込む。ただ辛いだけじゃない。コクもあって、辛旨いのだ。


 また、トマトの酸味も程よく絡んでいる。チキンも唇だけで噛み切れそうなくらい柔らかいし、野菜の甘みもしっかりと感じられる。


 そしてナン。これがめちゃくちゃ美味しいのだ。


 外はカリッカリで、中はもっちもち。月並みな表現にはなってしまうが、これがまた美味しいのだ。単体で食べても美味しい。


 当然ではあるが、その味を最大限活かせるのがカレーと絡ませる事である。


 前述したスパイシーなカレーがナンにベストマッチである。ライスとはまた違う美味しさ。

 いやもう、誇張抜きでいくらでも食べられそうだ。


「ねえねえ、飛鳥君は有紗と遊んでる時はどんな感じだったの?」

「んぐ、そうですね」


 また、食べながらにはなるがシャルとの事について根掘り葉掘り聞かれていた。


「色々振り回されてはいましたが、それが楽しかったです」


 ここで正直な気持ちを言わないのは違うだろう。あの時の事を思い出しながら口にする。


「明日はどこに行くんだろうとか、何をするんだろうとか寝る前に考えて。迷子になった時は不安なんですが、シャルに『大丈夫だよ』って言われると、不思議と落ち着くんです」

「うんうん、有紗も言ってた言ってた。『迷子になった時のテオはすっごく可愛い』って」

「……シャル?」


 何言ってんの? と思って見るも、彼女はにこりと微笑みかけてくるのみ。


「だって可愛かったんだもん。私が『大丈夫だよ』って言ったら『ん』って震えた声で手ぎゅって握ってくるところとか」

「い、今のって普通バラされて焦る場面とかじゃないのか?」

「テオの事が好きって二人に話してるからね。今更だよ。それに――」



 彼女の顔が唐突に近づいてきて、思わず身を引くも……


「動かないで」


 その言葉は魔法のように俺を縛り付けた。ピタリと動きを止めた俺を見て、満足そうにシャルは顔を寄せる。


 唇のすぐ隣に、雲のように柔らかいものが触れる。いつもより少しだけ大きなリップ音が鳴り……シャルはその瑞々しい唇をぺろりと舐めた。


「そんな風に口元を汚す所とかも可愛いからね」

「――ッ」


 顔に熱が集まってくる。しかし、その瞳に見つめられると隠そうという気すらなくなってしまう。


「つ、次やったら怒るからな」

「ふふ、はーい」


 カレーが食べたいという気持ちも大いにあったので、一旦は置いておく事にした。


「仲が良くて何より、ね。お父さん」

「そうだね。……でも有紗、お行儀が悪いから外ではしないようにね」

「はーい」


 シャルはそう言った後、小さく舌を出す。俺はそれを見逃さなかったのだった。


 ◆◆◆


「テオの話、聞いても良いかな」


 風呂から出てきて、シャルが頭を乾かしてくれた後。シャルはそう聞いてきた。ベッドに寝転がって、ぽんぽんと隣を叩いてくる。


「……まあ、良いけど」

「やった。テオの事、もっと教えて」


 急かすようにぽんぽんと叩くスピードが速められる。大人しく隣に寝転がると、上から布団を覆い被せられた。


 ふわりと甘く爽やかな香り……シャルの匂いが全身を包み込む。

 同時に布団の中で感じる温もりがシャルの体温で温められたものだと察する。変な気分になってしまいそうだ。


 すぐ隣にシャルの顔があって、カラメル色の瞳は楽しそうに俺の事を見つめている。


「シャルと会う前と会った後、どっちが良い?」

「どっちでも。テオの好きな方で」

「……じゃあ、シャルと会う前の事でも話すかな」


 だが、その前に。


「シャル。その、今手を握られると落ち着かないんだが」


 普段ならまあ……まだ、ほんの少しだけ慣れてきたような気がしなくもない。

 だけど、今はなんかすっごいドキドキする。


 手のひらはとても柔らかくて、小さくて……自分とは違う事が思い知らされる。


 五感のほとんどがシャルに支配されているから。それと、シャルの部屋だからという事が精神にも影響しているような気がする。


「じゃあハグするね」

「だ、ダメだ」

「えー? やだ。ハグしたくなっちゃったからするね」


 逃げる暇もなくぎゅうっと抱きしめられる。

 むにゅりと綿飴のような柔らかいものが押しつぶされ、その奥からとくんとくんと鼓動が聞こえてきた。


 その鼓動は少しずつ大きく、早くなっていた。


「……なんかすごいね。私の部屋にテオが居て、私に抱きしめられてるって。ドキドキしちゃう」

「そ、それなら抱きしめない方が良いんじゃ?」

「好きだからドキドキしてるんだよ。……でも、話が聞きにくくなるからこれくらいにしておこうかな」



 そこでシャルは離してくれる。ホッとしつつ……また気が変わらないうちに話し始めようと口を開いた。


「シャルに会う前。色んな国に行ってた頃の話するぞ」


 懐かしい記憶を掘り返しているの自然と遠くを見つめていた。


「割と普通だったよ。学校に行って、友達作って遊んだりだな。おにごっこみたいなのは万国共通だったし」

「へえ。言語的なのは大丈夫だったの?」

「ジェスチャーとイラストは正義。あと英語話せる先生」

「あ、分かる」


 簡単な言葉なら割とすぐ話せるようになったが、やはり分からないものの方が多い。そういう時に活躍するのがジェスチャーとイラストである。


 特にイラストはお互い伝わりやすい。遊びなんかも棒人間ですぐ分かるし。


 どうしても分からない時は英語を話せる先生を呼んで通訳して貰った。中には同い年で英語を話せる人も居たし、そういう時は楽だった。


「……ああいうのも楽しかったけど。やっぱりシャルと会ってからの方が楽しかったな」

「!」


 記憶の濃度が全然違う。

 シャルと会ったのはたった一ヶ月と少し……それでも夏休みだったから、期間にしては長い時間遊んだ気はするけども。


 とにかく、シャルと出会うまでと出会ってからを比べると……彼女と出会ってからやっと色が付いたように思える。


「じゃあ私が特別だったんだ」

「……それは、当たり前だろ」

「そっか。ふふ、そっか。私もテオがだよ」


 ごそりと物音を立てて彼女は近づいてくる。その唇が頬に触れ……彼女は嬉しそうに笑う。


「もっと教えて、テオの事」

「分かったよ。あれは――」



 その反応は俺にとっても結構嬉しくて、また話し始める。



 どんどん時間は過ぎて行って――気がつくと、お互いの欠伸の量は増えていった。

 眠気で俺もあんまり頭が回らなくなってきたな。


「そろそろ寝るか?」

「うん、そうだね。私の事はまた今度話すよ」


 リモコンで電気を消すと、暗闇が訪れる。それでも隣から聞こえてくる息遣いや体温が、彼女が隣に居る事を証明している。


「おやすみ、テオ」


 その言葉と共に、頬へと柔らかいものが押し当てられた。


「おやすみ、シャル」


 シャルが居るであろう場所へと唇を当てる。



 ――が、この時の俺は眠気が限界で気づけなかった。



 ◆◇◆◇◆


 暗闇の中。少女は目を見開いていた。


 その隣にはすやすやと眠る少年の姿がある。



「……え、えっ」


 先程まで睡魔に襲われていたはずの彼女は驚き、顔を真っ赤にしていた。


 その指が唇を撫で、目はその指と彼が居る方向を行き来している。


「今のっ、くちびっ……」


 そこまで口にして、彼女は押し黙る。暗闇の中、顔は赤くなっていて耳まで真っ赤になっている。



 ――。今のはだ。


 必死に自分へそう言い聞かせる。それでも、彼女の頬は緩むばかりで引き締まってくれない。



 事故であろうと、彼からキスをしてくれたのだ――しかも、まだ触れ合わせた事の無い場所へと。


「……」


 段々と目が慣れてきて、彼女の目には幸せそうに眠る彼の姿が写った。


「覚悟してよ。テオ」


 小さく呟いて、彼女は彼へと抱きつく。少しすると、彼は寝返りでも打つように抱きしめ返してくる。


「まだ口にするキスは恥ずかしいけど――」


 彼に聞こえてない事を分かっていながら、少女は宣言する。


「絶対やり返すから」


 そう言って、彼女は強く彼の事を抱きしめて目を瞑る。



 心の中では、嬉しさと戸惑いと幸せがぐるぐると渦巻いていた。

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