第27話 自由人と琥珀の悩み

 クッキーを食べ終えてちょっとしてから。シャルが唐突に立ち上がった。


「お風呂入ってくるね」

「ん? ああ、分かった」


 シャルがリビングから出ていく……前に、ちらりとこちらを見てきた。


「テオ。いっしょに入る?」


 想定外の言葉に変な声が漏れそうになった。まだシャルのお父さんが居るぞ。いや、居なくても言っちゃいけないやつなんだが。


 ひとまず咳払いをして喉の調子を取り戻す。


「……冗談言ってないで入ってきてくれ」

「ふふ、つれないなぁ。あ、そうだ。私の部屋行っといて。また髪乾かして欲しいから」


 お願いね、とシャルは一つウインクをして浴室へと歩いていく。


 部屋には俺とシャル父だけが残された。

 ちなみにシャル母は晩御飯の準備をしにキッチンに居た。


「……その、なんかごめんなさい」

「何を謝っているんだい?」

「いや、なんというか。お二人に愛されて育っている事はよく分かっているので」


 なんかすっごい歓迎ムードではあるが。普通彼氏が家に来たとなったら『生かしては帰さんぞこの痴れ者がああああぁぁぁ!』となってもおかしくない。


 そこまでは行かなくとも、多少は良くない視線を向けられたり色々言われたりすると思っていた。


「そうだね。確かに飛鳥君じゃなかったら、僕もこの肉体を活かしてポージングを決めたかもしれない」

「えっ、ポージングが威嚇になるんですか」

「似たようなものだよ。少なくとも二十年前の僕ならびびるね」

「……確かに」


 目の前でいきなり恋人の父親であるマッチョがポージングを決めてきたら少し……いや、かなり怖いかもしれない。


 そこでシャル父が笑った。


「なんてね。冗談だよ」


 さすがに冗談だったようだ。何となく感じていた緊張が少し解けた。

 シャル父はにこやかな笑顔をうかべたまま俺を見てくる。


「一番の理由は簡単だ。有紗の夫になるなら飛鳥君以外居ないって分かってるからだよ」

「……それは、少し早計じゃないですか? まだ高校一年生ですし」

「もう高校一年生だよ。十五年以上有紗の父親をしていたから分かる。あの子が一番輝いているのは、君の隣なんだよ」


 その太い大木を思わせる腕が伸びてきて、肩をがしっと掴んでくる。


「娘の幸せが僕達にとって何よりの幸せなんだ。だからこそ、飛鳥君に言えることは何も――いや、一つだけあるか」


 なんだろうとシャル父を見る。じっと、まっすぐに見つめられる。その瞳は真面目でありながら、とても優しいもので。



「有紗を頼む」



 告げられた言葉に――俺は即答する事が出来なかった。


「――ッ。俺、は……」


 やっと口を開いて声を絞り出したものの、簡単な言葉すら出てこなかった。



 頷く事すら、俺には出来なかった。



 自分へのやるせない気持ちが浮き上がってくる。


 そんな俺へと優しい声が投げかけられた。



「ごめんね、いきなり言っても困らせるだけだね。ゆっくり、飛鳥君のペースでいいよ。有紗から話は聞いてるから」

「……ごめんなさい」

「飛鳥君が謝る事は何一つないよ。今、あの子は誰よりも楽しんでいるんだからね」



 ……分かっている。分かっているはずなんだ。短い時間だけど、シャルが俺を見捨てたりしないはずだって。


 それでも――



 ――気持ち悪い眼

 ――うわー、まじかよ。お前が後ろなのかよ。席替えハズレじゃん

 ――話しかけないで。友達とか思われたくないし


 彼らから投げられた言葉が耳にこびりついている。



 ――なあなあ、変な目の兄ちゃんよぉ



 あの公園での記憶が引き出された。彼らと同じような顔で笑う男達の事を。



 もし。もし俺とシャルの立場が逆だったとして。俺は彼女を助ける事が出来ただろうか。


 助ける、なんて口ではいくらでも言える。言えた。

 だけど、実際動けたのかどうかは……分からない。


 俺はシャルの事を助けられるのだろうか。

 もし助けられなければ――いや、これ以上考えるのはやめておこう。人の家で、しかも彼女シャルのお父さんの前で考える事じゃない。



 ◆◆◆


「……本当に入って良かったのかな」


 シャルのお父さんと話をしてから、俺は今シャルの部屋に居た。先程部屋で待っててと言われたからである。


 部屋の中、すっごいシャルの匂いがする……と言うと凄く変態っぽいが。


 そして、シャルの部屋はとても彼女らしい作りとなっていた。


 カーテンは彼女の髪と同じブラウンである。


 勉強机の上にはいくつものぬいぐるみが置かれていて……写真立てに一枚の写真が飾られていた。あれ? 俺が写ってる?


 俺とシャルが海をバックに撮られた自撮り写真のようだ。そういえば一回だけ海に行った事があったな。その時写真も一枚撮ったんだっけか。


 俺もその写真が欲しかったが、スマホで撮っている訳ではなかった。現像したら欲しいと言うのもなんとなく恥ずかしくて、少しだけ後悔した記憶がある。


「懐かしいな」


 その他にも、あそこで買ったキーホルダーやガシャガシャから出たよく分からないフィギュアなんかも飾られている。


 そこから視線をベッドに移すと、とても大きな存在感を放つものと目が合った。


 とても大きなクマのぬいぐるみである。

 それはもうかなり大きく、抱き枕に出来そうだ。……そういえばシャルも抱き癖があるみたいな話をしてたな。


 となるとこれは寝るときに抱きしめる用か。



 ……シャルが寝るときにずっと抱きしめてたぬいぐるみか。


 ふと、脳裏によくない考えが浮かんだ。それはダメだ。非常によろしくない。


 よろしくない……と分かっているはずなのに。気がつくと、そのぬいぐるみの近くまで来てしまっていた。いや、ダメだ。ダメなやつだ。


 眼を瞑り、深呼吸をする。……ここで深呼吸をするのもなんか良くない気がするけども。



 大人しくベッドに座り込んだ。改めて部屋を見渡すと、本棚が目に入った。漫画がいくつも置かれている。借りて読もうかなと思った時……扉が開いた。


「テーオ、髪乾かして」

「……早かったな」


 ひょこっと顔を覗かせたのは髪をタオルでまとめたシャルである。

 俺の言葉にシャルがそう? と首を傾げた。


「テオが家に居るのに長風呂する理由はあんまりないから……って言いたいけど、それでも結構長い時間浸かってたと思うよ」

「……ほんとだ。もうこんなに時間経ってたんだな」


 シャルのお父さんと結構長い時間話していたらしい。後半は考え事をしていて何を話していたのかあんまり覚えてないけども。


「じゃあテオ、お願いね」

「分かった」


 ドライヤーを受け取り、シャルが隣に座る。家に来た時と同じようにドライヤーで乾かし始めた。


 珍しく会話はない。あの時でも会話はあったが。シャルはただ気持ちよさそうに目を瞑っていた。


 しっとりと水分を含んでいる髪を乾かしながら、頭の中に黒いもやがかかり始める。


 またその事について考えてしまい、その間に髪を乾かし終えてしまった。


「……終わったぞ」

「ありがと、テオ。こっち来て」


 ドライヤーを片付けようとするも、シャルに呼ばれる。この後される事をなんとなく予想しつつも……机の上にドライヤーを置いて、俺はシャルの隣に座った。


「ちょっとだけ横なろ、テオ」

「……分かった」


 てっきり前のようにいきなり倒されるのかと思ったが、違った。


 カラメル色の瞳はまっすぐに俺を見ている。横になると……シャルの匂いが強くなった。



 シャルもすぐ隣に寝転がってきて――


「おいで」


 ――腕を広げ、そう言った。


 時が止まったかのような錯覚を起こす。


「……えっと?」

「テオ、悩んでるんでしょ? 下でお父さんがすっごい唸っててさ。『飛鳥君に悪い事を言ってしまった』って。中身までは聞いてないけど、テオも普段と違う感じだったからさ」

「そう、か」

「うん。でもテオ、一人で悩む必要はなんにもないんだよ」


 カラメル色の瞳には柔らかな光が宿っている。


「知ってた? ハグってストレスとかを軽減する効果があるんだって」

「聞いた事は、あるけど」

「じゃあ試してみて」


 その瞳は有無を言わせてくれない。大人しく俺は……背中へと腕を回した。


 柑橘類のように甘く、爽やかな匂い。その中にシャンプーやボディソープの匂いが混じる。

 そして、胸の辺りにめちゃくちゃ柔らかいものが押し当てられ……少し身を引こうとするも、彼女に強く抱きしめられてそれは叶わなかった。


「テオ」

「……ん」

「ゆっくりで良いんだよ。結婚できるまで、まだまだ時間あるからね」

「……ごめん」

「テオ。勘違いしないで欲しいんだけど、私は幸せなんだよ」


 ぎゅっと、抱きしめられる力が強くなる。耳を柔らかい物が啄んできた。


「テオと会ってからずーっと楽しいよ、私。これからもずっと楽しいんだろうなって考えると、もっと楽しくなる」

「……俺も、シャルと一緒に居ると楽しい」

「ふふ、良かった。だから、急がなくていいんだよ。ゆっくり、いっしょに楽しも」


 その言葉が、暖かさが。少しずつ黒いもやを晴らしていく。


「シャル」

「はーい」

「ありがとう」

「どういたしまして」


 その言葉を聞きつつ、笑みが漏れた。



 シャルが信じてくれる俺ならきっと、いざという時でもきっと助けられるだろう、と。

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