第22話 自由人の誘惑

「……なあ、シャル」

「んー?」

「近くないか?」

「近くないよ」


 ソファに座ってくつろいでいると。隣にシャルが座ってきた……までは良かったのだが。


 ごろんと横になってきた。要するに膝枕である。


 当然のようにそこに居座り、彼女はラノベを読み始めた。


「近いと思うんだが」

「近くないよ」

「……もう完全にゼロ距離だぞ?」

「はぁ。分かってないなぁ」


 あれ、無限ループから抜けた?


 よっ、と掛け声と共に彼女は起き上がる。その目はニヤニヤとしていて……何か企んでる事が分かった。


 淡い桃色をした唇が開く。



「いい? ゼロ距離っていうのは――」



 とん、と胸を押された。背もたれに背中が押し付けられ――



「こういうのを言うんだよ」



 ふわりと。鳥が木の枝から木の枝へと飛び移るように、彼女は跳んだ。


 ギシリ、とソファのスプリングが軋む。でも、俺の体重に彼女の軽い体重が加わっただけでは壊れたりしない。



 ――朝も思ったが、彼女は全然重くない、軽いとすら言える。


 ……大きく存在感を発する二つの塊を除いての話になるが。


「ち、近――」

「近いよ。ふふ。近すぎるくらいにね」


 その笑い声が耳をくすぐる。柑橘系の匂いが強くなり……少し、その匂いの中で甘さが強くなったような気がした。


「し、シャルさん。その位置は非常にまずいんですが」

「聞こえないなぁ」

「どうやったらそんな純度100%の嘘つけるんだよ」

「私だから、かな」

「また意味のわからない事をッ――」



 剥かれた果実のように柔く、湯のように温かいものが――耳たぶを包み込む。



「あむあむ」

「――ッ、シャル、やめっ……」

「ふふ」


 ゾワゾワと背筋を駆け上がる何かに心を焼かれそうになり、顔を引く。思っていたより簡単に彼女は口を離してくれた。


「いいんじゃない? まずい事になっても。恋人なんだし」

「――ッ、そ、それは」

「私はテオの色んな姿が見たいんだけどな」


 耳から離れても、その口はすぐ近くにある。囁かれた言葉は鼓膜から直接脳内へと伝わってきて、身震いをしてしまう。



「……」

「なんてね。三割くらいは冗談だよ。七割は本気ね」

「それは、十分本気じゃないか」

「ん、そうだね。でも今しかこんなテオの反応は見られないと思うからさ」


 膝の上でシャルは笑う。楽しそうに……色々なものを押し付けてきながら。


 頑張れ俺。耐えろ俺。正気になれ俺。

 そうだ。隼斗の事でも思い出し……いや、それは諸刃の剣すぎる。あいつでどうにかなってしまった日には寝込んでしまうだろう。三日くらい。


「じゃあこの辺りでやめておこうかな。まだ色々楽しみたいし」

「勘弁してくれ……」

「やだ」


 シャルはくるりと振り返りつつ、すとんと俺の隣に座る。


 俺の肩に頭を置いて、ラノベを読み始めた。



 本当に――ずるい。全てを見通しているようで。



 ◆◆◆


「はい、あーん」

「……チャーハンってあーんするのに向いてなくないか?」

「え? 口移しが良い?」

「い、言ってない。そんな特殊な癖はないから」

「そう? 残念」

「……残念?」

「はい、テオ。あーん」


 シャルは言葉を遮ってスプーンを突っ込んでくる。口に当てられ、大人しく口を開いた。


 香ばしい香りと共に野菜の甘さや肉の旨みがガツンと味蕾を刺激する。噛む度にそれは溢れ出してきた。

 お米もパラパラで、めちゃくちゃ美味しい。


「……美味しいな」

「でしょ? お父さんの得意料理で、お母さんが居ない時によく作ってくれてたんだ」


 今日の夜はシャルが作ってくれた。チャーハンというチョイスは少し予想外だったけど、その言葉に納得した。


「ん、美味しい」


 シャルもチャーハンを食べて満足したようにこくこくと頷いていた。


 それからは普通に食べる。めちゃくちゃ食べやすくて美味しい。


 ペロッと平らげ、片付け……はシャルがやってくれるらしかった。


 キッチンにてお皿を洗ってくれるシャルを見つつ……カラメル色の瞳がこちらを見てきて、彼女はニコリと笑う。


 なんか、色々改めて思うが。シャルってめちゃくちゃスペック高いよな。


 容姿はもちろんだが、性格はカラッとしていて凄くまっすぐである。

 自由人ではあるものの、俺からしてみるとそれがまた楽しい。毎日が楽しいから。


 それと、彼女は観察眼も鋭い。俺が分かりやすいというのも多分あるが、人が嫌がる事は決してしないのだ。……少しだけ意地悪ではあるけども。


 視線を彼女から外し、ソファを背にして天井を見上げる。


 ……なんかシャル、帰ってきてから距離が近い気がする。

 今までもかなり近かった。でも、さすがに座っている所に乗ってきて……耳を食べられるとは思わなかった。


 帰ってきてすぐでこれなのだ。


 夜の事を思うと、自然とため息が出る。


 ……それでも、嫌という気持ちは一切ないというのが困りものだった。



 ◆◆◆


「……で、その不安は見事に的中した訳だが」

「ん? 何が?」

「脚が、だな」

「……? 触る?」

「そうじゃない。上から下ろしてくれ」

「え、やだ」



 後はもう寝るだけとなり、ベッドへ横になっていたんだが。俺は今一切身動きが出来ずにいた。


 さすがに大袈裟だとか言われそうであるが。本当に動けないのだ。


 上半身は腕。下半身は脚を絡ませて抱きしめられているのである。


「昨日まで脚は乗せてなかったよな。それならまだ大丈夫なんだが」

「んー。やだ」

「話聞かないな」

「だってテオ、嫌がってないし」

「ぐぬ」


 ……初恋の人にこんな形で抱きしめられて嫌がる男子は多分居ないと思う。


 という言葉はそう簡単には出てこなかった。


 こうなったらもう諦めるしかない。幸い、脚が危ない所に当たっている訳じゃないし。


 ……右半身は危ない所に当たっているのだが。


「な、なあ。シャル。離れないか? 少しでいいから」

「え、やだよ」

「……あ、当たってるんだが」


 むにゅりと。肩を挟み込むように柔らかなものが当たっていた。なんか今日は特に柔らかいような気がする。


「男の子ってこういうの好きなんでしょ? お母さんが言ってたよ」

「シャルのお母さん何言ってるんだよ」

「テオと結婚したいんだけどどうすれば良い? って聞いたら色々教えてくれたんだ。『武器おっぱいを使えば男の子なんて一発よ』って」

「母子の仲が良すぎるな」


 普通実行しないだろとか言いたいが、目の前に居る彼女が普通でない事は分かりきっていた。


 すると、シャルが少しだけ離れた。この隙に逃げようか迷ったが、多分やっても意味がない。


 そして、シャルはパジャマの上から自分の胸を抱えた。ぎゅむっと腕に押さえられたそれは凄く強調されている。


「触ってみる?」

「さ、触らない」


 ちらりとカラメル色の瞳がこちらを向く。首を振って顔ごと逸らそうとするも、上手くいかなかった。


「テオならいいよ?」

「……触らない」


 その指が生地の上から触れると、同じ人体とは思えないくらい簡単に沈んだ。


「私が言うのもあれだけど。柔らかいよ?」

「…………触らない」

「ふーん? じゃあテオ、両手前に出してみて」

「出さないからな」


 今度こそ、今度こそどうにか目を逸らした。よく頑張った理性。これからも酷使していくからな。


 それにしても……普通、あんなに簡単に指が沈み込んだりはしないはずだが。てっきり薄いものを付けてるのかと思ったが、まさか……いや、もう考えるな。これ以上理性を削ると本当に危ない。


「……明日は学校なんだ。早めに寝よう」

「そっか。残念」


 目を瞑ると、また彼女の体が体温が……そして、柔らかさが体の至る所から伝わってくるのが分かった。


「おやすみ、テオ」

「……おやすみ、シャル」


 頬へと伝わってくる特別柔らかい感触。数秒だけ目を開け――同じように彼女の頬に唇を押し当てた。




 そうして今度こそ、シャルとの長いデートは終わった。



 またすぐに明日は来るんだけどな。

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