第二話 『言い訳』

 ヴヴ ヴヴ ヴヴ ヴヴ――


 車通りの多い一直線の道路を自転車で漕いでいる最中、右後ろのポッケが振動した。

 見なくても分かっていた。電話のバイブレーションだ、ということに――。

 そして気付いていた。この電話先の人間が一体誰なのか、ということに――。

 途中で気付いていた。出し忘れている、ということに――。

 逃たい……。

 さっきまでかいていなかった汗が、ここぞばかりに湧き出てきやがる。

“嫌な予感がする”——と、体現しているかのように。

 だが、その最中さなかでも通勤の為だと、車はビュンビュンと走り過ぎていく。

 ここでは出られない。と、すぐに脳が働いた。

 でも、出なければならない。とも、脳裏にはよぎっていた。

 己の次の行動で求められるのは、“正解を導き出す、”こと。

 まるで『難問』だ。

 そして現在のこの状況……時間はない。

 それらをすべて理解し、投げやり半分で結論を出した時——自転車は通りっ端にあるとある会社の入り口付近の開けた歩道の傍で止まった。


 ヴヴ ヴヴ ヴ……


 ――無視をすることであった。

 ポッケから取り出したスマホのバイブレーションが鳴り止む。

 同時に、スマホの画面に表示されていた『』の文字も消えた……。


「…………ふぅ」


 全身という全身から余分な力が溶け落ちるかのように安堵する瞬間が訪れ、ある種、逃れられた……だろう。

 この時の気持ち良さは、言葉に変え難いってものがあるってもんだ。

 そんな安堵を噛みしめながら、再び自転車を漕ぎ出す為、スマホを元のポッケにしまい込んでペダルを一回転させてから脚を乗せ、いざ漕ぎ出す――という時に振動をまた、感じた。


 ヴヴ ヴヴ ヴヴ ヴヴ――


 切れてから掛けなおすまでの間、約四秒。

 もう一度スマホを取り出して画面を見た。

『鬼神』の文字。

 生唾を飲む。

 一度目を付けたら、そう易々と逃すつもりはないらしい。

 だから……諦めた。


「もしもし……?」

「あ、やっと出た!出るならもっと早く出てよね、お兄ちゃん!——」


 如何にも、語尾にハートが付いていそうな柔らかくて甘えた声が、耳にあてた横長のスピーカーから聞こえ、最後はこう言い放つ。


「——今すぐ帰ってこい」


 プツン プー プー プー プー


「…………」


 寒気と鳥肌が立った。

 その瞬間、人のリミッターが外れた途端に発揮する馬鹿力で、今まで通ってきた道を太ももが千切れんばかりに戻った。





「あんたさ、前に話して決めた担当のこと……覚えてるよね?」


 腕と脚を組みながらダイニングチェアーに座っている桜羅。

 その姿はまるで女帝のさまで、怒気を含んだような言い草をする。


「はい……。“料理関連は桜羅が担当し、洗濯や掃除といった家事全般はお互いに協力をし合って、毎週のゴミ出しは僕がやること”、ですよね……?」


 一方、そんな女帝の――立場でいえば『兄』にあたる少年は、床に土下座をして下を向きながら小さくなっていた。


「うん。じゃあ、これは――?」


 重たそうにしながら、テーブルの下から今にも破れそうなパンパンになったゴミ袋をズリズリと引きずり出してくる。


 ドッッックンッッ


 それを顔を上げて一瞬チラッと見た途端、一度、大きく鼓動が大きく爆発を起こして冷や汗を流すも、脳内はぐるりぐるりと高速に思考を始めた。

 理由……。

 その理由……。

 それの理由……。

 そういう時の妹——桜羅は、トテモコワイ……。

 日常生活でただ単になにかを『忘れた』のであれば注意ぐらい済むかわいいものなのだが、それが“役割!担当!仕事!”のことで『忘れた』のであれば、これでもかってぐらい叱って、しばらく許さない。

 てか、許された覚えがない。

 それが彼女なりのからくるものなんだろうか……。

 用は、『忘れた』内容がどのような立場にあるのか、で、後の対応が変わってくるのである。

 だから、コワイ。

 も~んの凄くコワイ。

 それを重々理解していることで、今、とても苦労していた。


「——あのぉ、ソレはですねー……あ、いや、そのぉー……」


 思いつく限りの理由いいわけを一つや二つ述べようと試みようとするが故に、女帝の顔を見た途端、口ごもってしまった。

 不意に彼女の表情と空気感を察して、パっと思いついた程度の言い訳が通用するような状況ではなかったのだ。

 ……分かっている。この件に関して自分の立場が弱いってことぐらい。

 更に小さくなってしまった。兄なのに。


「まぁ、いいや。あんたが食べた後の食器をシンクに持っててないことも、まぁ置いといてあげる。ただ、そんなことよりも、私が一番怒っているのはそういう事じゃない――」

「……え……⁉」

「フン。教えてあげるよ。お・に・い・ちゃん!」

「…………」


 その語尾にハートが付いていそうな言い方を再びされて、しっかりと心の奥底にトラウマに刻まれるのを感じつつも、ダイニングチェアから立ち上がった桜羅はキッチンへと歩みを進めた。

 土下座をしている状態では頭部しか見えない為に、途中で頭が止まって下を向くや否や何かを持ち出してリビングに姿を現す。

 その両手にはナプキンに包まれたそこそこ高さのある長方形があった。


「……?そ、それはなんでしょうか?」

「コレ?今朝、私が早起きして作ったお弁当」

「あっ」


 その反応に微笑み、歩みを進めてはお弁箱をテーブルの上に置く。

 そしてこちらに近づき、唇同士が触れちゃうぐらいの距離までつらを縮めて睨まれた。


「今、“あっ”って言ったよね?」

「はい」

「つまり、私が作ったお弁当すらも忘れてた、ということだよね?」

「いえ。決してそん――」

「言い訳は嫌いだよ?」

「はい。仰る通りです」

「もう二度と作らないよ?」

「それは……」

「嫌?」

「はい!」


 ぼやけていた顔がゆっくりと離れる。


「じゃあ、次からはちゃんと起きる?」

「はい。起きます!きちんと目覚まし時計を付けます。夜更かしはもうしませんっ」

「ふーん、そう……」


 まんまと桜羅の誘導に引っかかったことで言葉に出た元凶の告白。

 それは一度のみならず、中学時代も合わせたら、かれこれ……四年間ほど?続いてたものである。

 いくら注意しようが、改善の『か』文字すら見られなかったことの溜まっていた不満は、この元凶の告白によって『逆鱗』という名の鮮花に栄養剤を与えたようなもので、桜羅の右にあるたなごころが拳へと変化して、ゆっくりと持ち上げさせた。


「お、おい!待て、桜羅?桜羅さーん?!な、何をする気だ?!」

「ンフフ。男って、いつまで経っても甘えん坊さんなんだから……、ねっ?」





「え、えぇっと……コレは、遅刻した理由として受け取っても……いい、のかな?」


 その時にいた教員のすべてが見守る職員室。

 少年の顔にはとても濃い『愛情』の戯れがきちんと記録されていた。

 頭にできているたんこぶから湯気が立っている。


「はひ。ひょおふひぇひゅひゃひゃひ……」

 ※はい。そうしてください


 かける言葉が見つからない女性の教員は、呆れ混じりに言う。


「また、あの娘を怒らせたんだね。キミ……」

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