植村昭子(本編第27話~第55話前)
その日。
「ありがとう。
これで寺岡さんのところに出しておいてくれる?」
「はいっ。」
榎本さんが、明るい声で頷きながら
小辻君から起案一式を受け取り、4階の人事課に向かう。
小辻君は、穏やかな顔と、
聴くものの心を落ち着かせる声で、私に告げた。
「暫く外に出ますので。」
調査一課の、変わらない日々。
そのはず、だった。
(!?)
もう一つのスマートフォンに入った警笛が、
けたたましく私の脳裏を揺さぶる。
<N、
Y、
私は、一瞬で逡巡を打ち破った。
「小辻主任。」
質の良いフェイスソープを使うようになった
小辻君の落ち着いた顔に、僅かな驚きが浮かんでいた。
私が普段、話しかけないようにしているからだろうか。
私は彼を手招きしながら、廊下の外に出た直後、
「人事課所属の元彼が、
性的な危害を加えようとしています。」
端的に、要点だけを述べ、
「4階で、榎本さんの周囲を確認して下さい。
それだけで、抑止になるはずです。
どうか、お願いします。」
少し話の呑み込めていない表情の小辻君は、
最後の一言で頷き、小走りに階段へと向かった。
私は、心の底から安堵し、
身体の震えを隠しながら、
社外の空気を吸いに早い昼食へと向かった。
*
……。
新しい部屋に住む小辻君の近くに、
明らかに、不信な人がまとわりついている。
社内か、社外か。
探偵や報道の線も考えられる。
しかし、これも、
誰にも相談できはしない。
小辻君と榊原晴香の交際関係が表に出ることは、
私にとっては望ましく、現経営陣にとっては一つの破滅だ。
少なくとも、百五十周年事業の目処がつくまでは、
二人の関係は伏せ切るべきだろう。
しかし。
二人の関係が進み過ぎれば、
榎本さんの芽は、なくなる。
……
こんなのは、ほっておくべきなのに。
私がどうにかできることなんかじゃないのに。
私の心が、虚しく騒ぎ立てる。
私が為し得なかった、私に訪れなかった幸せな道を、
榎本さんに歩んで欲しい。
……分かって、いる。
そんなのはただの勝手な押し付けに過ぎないと、
大胆な決断と行動ができなかった
愚かで臆病な自分への恨みを、
歪んだ形で外に出しているに過ぎないと。
それでも。
私は、榎本さんを、
24年前の私を、救いたい。
しかし。
若手ながら、傾国の美少女との呼び声も高く、
可憐な容姿の中に大女優の風格すら漂わせる、
偏頗な神の恩寵を一身に浴びた、存在自体が奇跡のような少女。
相手が、悪すぎる。
勝ち筋など、一匙すらもないのでは。
私は、また、不毛な徒労の山を積み上げるだけで。
千々に乱れた私の心臓を、
人工的なバイブレーションが揺るがす。
<少々、お時間、よろしいでしょうか>
私は、二十年前と変わらない外套を羽織り、
建付けの悪いドアを廻し、慎重に鍵を掛けた。
*
「人事部長の命令だと言い張っています。」
丹羽修爾。
広報課時代、彼の上司は結城課長だった。
監査部の内部調査で、
その見返りに、パンフレットやビデオ製作の外注先となる
製作会社の口を利いていたことが判明し、
次の人事で、売上の低い海外支社へ転勤になることが決まっている。
既に社内での命脈が絶たれたからなのか、
なにか、他の要因があるのか。
「小辻君の情報を
彼で、間違いないのですね。」
「はい。」
……。
「こちらも、少々、甘かったですね。
結城人事部長を追い込みすぎるのはバランスを失すると、
葛原調査部長と一緒になって、
丹羽君を飼い殺そうとしていましたから。」
私は、はたと思いついた。
「丹羽君の行動を監視していたのは、
人事課の女子社員ですか。」
「いえ、
念のためと思ったのが、仇となったようです。
この件は、羽鳥室長に直接口頭にて報告済です。
それ、よりも。」
千里さんが躊躇いながら告げた言葉は、
私の耳を、銀の弾丸のように撃ちぬいた。
*
……。
知っていれば、援けたのだろうか。
知らないほうが、幸せだったのだろうか。
そもそも、私になにができたろうか。
もう、
なにも、分からない。
私は、産まれ落ちた時から、失敗していた。
私の人生は、ただ、罪の中にしかなかった。
私は、銀座の一等地に居を構える高級和紙店に寄り、
一通の便箋とインクを買い込み、
華やかに騒めく地下鉄の奥へと身を消した。
*
「辞表、ですか。」
「はい。
伴食の徒に過ぎない私を、
長い間ご指導頂き、大変ありがとうございました。
お世話になりました。」
二十五年近く、待った。
なにも、起こらなかった。
起きたことは、ただの凪と、
後悔に過ぎた日々だけ。
「本来であれば、
貴方のように優秀で御美しい方は、
誠意を込めて慰留すべきなのでしょうが。」
歯の浮くようなお世辞を平然と言うと、
湯瀬課長は、社内外の全女子社員の欲望の対象となっている
魔性の瞳を、キラリと輝かせた。
「どうやら、
お借りしていたものを、返せそうですね。」
意味の分からないことを告げた湯瀬課長は、
私に、一通の厚みのある封書を差し出した。
差出人の裏面を覗いた私の手は、
ただ一撃で、電流のように震えた。
静かに床に落ちていく封書を眺めながら、
湯瀬課長は、甘く、優しい声で、私の耳を惑わした。
「四半世紀の前に、
あと四か月だけ、貴方の時間を頂きます。
しっかりした引継ぎをお願いしますね。」
*
羽田から飛行機に乗り、
県庁所在地からほど遠い空港で降り、
レンタカーで二時間ほど走った先。
人口五万人を割り込むような、
海沿いの小さな町。
彼が、一度だけ紹介してくれた、
彼の亡き母親の故郷。
たった一つだけある、
ビジネスホテルに毛が生えたような『シティ』ホテル。
逸る心を抑えた私が、
まっすぐにフロントに向かった時。
「昭子。」
私の名を呼ぶ、懐かしい声。
少し小さく、しわがれてしまったけれども。
私は、一瞬で、二十五年の時を軽々と超えた。
髪に白いものを頂き、
目元には小皺が刻まれ、
肌にはシミが浮き上がっているのに。
盲目な私には、
湯瀬課長よりも、ずっと、輝いて見える。
「健道、さん。」
あぁ。
信じられない。
私が、その名を、呼べるなんて。
死ぬ前に見る幻ではないのか。
「はは、幻滅したか。」
私は、必死に、首を振った。
止めようと思っているのに、
ただ、普通に話したいだけなのに、
涙しか、出なくて。
「とっくの昔に、
君は、誰かと結婚していると思ったよ。」
歯並びはより、悪くなって、
頬は垂れ下がってしまっているのに。
「……私も、とうぜん、
そうなると、思っていましたよ。」
精一杯、強がって見せても、
膝が、揺らいでしまって。
あぁ。
抱き留められて。
力は、変わってしまったけど、
暖かさは、なにも、変わらない。
「……お勤め、ご苦労さまでした。」
「種馬のな。
君の会社にも、多大な迷惑をかけたようだが。」
(丹羽君の父親は、入り婿の方で、
元の名は、神林健道。
植村さんの元婚約者だとお伺いしています)
「……私は、何も、存じ上げませんでした。」
「俺もなんだよ。
なんせ、あれが十七の時に、
あの家を追い出されたからな。」
それなら、七年も前に。
「……恥ずかしい話だが、
あの家に、俺名義の資産は、一銭もなかった。
個人の貯金すら差し押さえられたからな。
完全に騙された。」
……そん、な。
「あの状態で、君に逢いに行ったら、
哀願しているようにしか聞こえないだろう。
それに、あの会社は、あいつ等と浅からぬ縁があるしな。」
探すべき、だった。
行動を、起こすべきだった。
そうすれば、まだ、ぎりぎりで
「子どもは、もう、懲りたし、
俺には、君は、贅沢だと思った。
そもそも、君は、もう。
……情けない話だが、
俺にも、勇気がなかったんだよ。
君が俺を覚えてるなんて、
まったく、思ってもいなかった。」
それ、は。
「ずいぶん、見くびられたものですね。」
千里さんが選んでくれた肌触りの良いイタリアの高級生地では、
覆い隠せなかった馬脚が現れてしまう。
「知ってました? 健道さん。
私、貴方が思ってるよりも、
もんの凄く執念深いんです。
貴方が死ぬまでの間、
私、絶対に貴方を逃がしません。
若いお相手と取り換えようされても、もう手遅れですから。」
「それは怖いな。」
「でも。
もう三か月だけ、私はまだ、駕籠の中です。
毎日、朝と夜に、二回連絡しますから。
絶対に、出て下さいますね。」
「言われなくてもな。
なんなら、社長室から繋ぎっぱなしにしてもいい。」
最後の言葉が耳に入らないうちに、
私は、小さな町のホテルのロビーで、
もう一度、強く抱きしめられた。
「昭子。
俺の、
俺だけの大切なお姫様。
君は、この先、
苦労するかもしれないぞ。
このホテル、俺達が死ぬまで、
維持できるかすらも分からないからな。」
事態がようやく呑み込めた私は、
頬に差した赤みを隠すように健道さんの首筋に弛んだ腕を廻し、
溢れる涙を拭いもせず、時を取り戻すように口づけた。
「そんなこと、なんでもありませんよ。
二十一万時間、味わい続けた哀しみに比べたら。」
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