植村昭子(本編第1話前~第23話)
たまたま、目に止めてしまった。
不器用そうな娘だった。
成績の良さだけを取り柄にして生きてきたような。
私と、同じだと。
そんな彼女が、素朴な服を脱ぎ、
けばけばしい化粧を身にまとい、
オトコ達に代わる代わる抱かれ、弄ばれ続ける姿を、
私はただ、眺めているだけだった。
彼女が望んだわけではないのに、
榎本さんは、男に媚びて、取り入って
地位を築こうとしていると思われている。
下らない。
本質を、何も見ていない。
思うだけ。
行動に、移さない。
移せは、しない。
(25年間、待ってくれないか)
ありえないものを待ち焦がれるだけの20年間を過ごした私は、
ゆっくりと死んでいくだけの余生を、
ただ、息をするだけの形骸に過ぎない。
*
調査一課は、不思議な職場だ。
元々は、天下り先の役人を受け入れるためだけに作った、
業界団体や役所へのルーティン業務を担当する部署だった。
工場にも、研究所にも、営業も、企画も、
もちろん、国内外の事業所からも遠い。
要するに、窓際部署だった。
物覚えの悪い癖に、プライドだけ高い上司に辟易しない、
世を棄てている人間だけがしがみつける場所。
そんなところに、彼が来た。
湯瀬誠。
社内では傍流の出自でありながら、
類稀なる容姿と才知を駆使し、
経営企画課の課長補佐まで勤めた彼が、
課長とはいえ、僻地に近い部署の長になった。
目立ちすぎた彼を隔離し、
実権から引き離して飼い殺す場所にしたのだと、
社内通は皆、思っただろう。
野心と才知に溢れた湯瀬課長が、
そんな風に、終わるはずはなかった。
最初の日に、彼は、全員の生年月日を覚えた。
次の三日で、彼は、全員と食事に行く機会を作った。
二か月後、湯瀬課長は、
調査一課の通常業務すら勤まらないコネ入社崩れの二人を、
人事課が逆らいようがないほど整った書面を作って
地方の工場へと左遷した。
その書類を作ったのが、去年入社した小辻静君。
まるで赴任前から二人で示し合わせていたかのように、
正確で、緻密で、徹底的な調査だった。
私は、懼れ慄いた。
それ以上に、凪ぎ続けた心がほんの少しときめいた。
正しい風が私の存在する世界に届いたのは、
いったい、いつぶりだったろうか。
二人を調査一課から追い払った六月人事で、
浜内千里さんが着任した。
湯瀬課長、浜内主任、小辻主査。
調査一課の性質と業務内容からすると、
考えられない強力な布陣だった。
といっても、千里さんは、結婚相手の要望で、
定時出社、定時帰宅を義務付けられていた。
私も、湯瀬課長も、相手方の出自を踏まえると、
やむを得ないことだと思っていた。
しかし。
「かなり激しいDVがあるようですね。」
二か月に一度、湯瀬課長は、
私などのような世棄て人とも、食事を共にして下さった。
残念ながら、湯瀬課長のほうが圧倒的に優れた容姿だが、
その物腰の柔らかさと芯の強い優しさは、
私の想い人の面影を思い起こされてくれた。
その席で。
「植村さん、気づいておられますね。」
私はただ、頷いた。
給湯器や化粧室。私だけが持つ情報源。
分からないわけはなかった。
次の言葉を、
私は、まったく予想していなかった。
「小辻君が、随分踏み込んだことを言いましてね。
そういうことを言う子だとは思わなかったから、
少々、驚いてます。」
狭き門の中途枠で採用された小辻静君は、
その名の通り、もの静かな青年だった。
真面目で、地道で、書類仕事には一つの疎漏もない。
湯瀬課長が紹介した美容室に通うようになってからは、
首から上は整ってきたが、2着しかない同系色のスーツを、
代わる代わる着てくるだけの、いたって地味な青年。
そんな小辻君が、名家のお嬢様に、
経済界に名を連ねる有力者の猶子である結婚相手と、
『いますぐ別れろ』などと言うとは。
「ああなっちゃうと、
もう後には引けませんからね。
僕としては、小辻君を援けたい。」
その時、はっきりとわかった。
湯瀬課長は、千里さんではなく、小辻静君が大切なのだと。
「協力して頂けますか。
貴方の力をお借りしたい。
借りは必ずお返します。」
*
私の役どころは、
いたって単純なものであり。
「浜内主任。」
「え?
ど、どうされましたか、植村さん。」
私は、つかつかと寄って行き、
千里さんの手首を、おもむろに掴み、
袖を、ぐいっと引き上げた。
「!」
年長の、昼行灯を囲う私が、
こんな無礼な行動を取ると思っていなかったのだろう。
千里さんは、顔を真っ赤にして俯いている。
名家のお嬢様ゆえに、屈辱を感じているのだろうか。
「小辻主査からの提案、
受けてよろしいのではないかと。」
「!?」
最後の、一押し。
(普段、人への関心がないようにみせている
おくゆかしい植村さんに言われれば、
千里さんも、決断できるでしょうね)
湯瀬課長の思惑通りだった。
長く、うだるように暑かった夏が終わる頃、
浜内主任は、寺岡主任に復した。
憑き物が落ちたように明るく、
魅力的になった千里さんは、残業時間を増やしつつ、
社内の女子社員との関係を作り戻していく。
私は何も変わらない。
何もせず、何も動かない。
(25年間、待ってくれないか)
ただ、このまま、
無謀を恃み、空費して、死んでいくだけの人生。
それでも、自分の存在している狭い空間が、
若い人たちで活気づくことは、
世を棄てた私の心までも、明るくしてくれるようだった。
*
たまたま、目に止めてしまった。
不器用そうな娘だった。
成績の良さだけを取り柄にして生きてきたような。
あの頃の私と、同じだと。
そんな彼女が、素朴な服を脱ぎ、
けばけばしい化粧を身にまとい、
オトコ達に代わる代わる抱かれ、弄ばれ続ける姿を、
私はただ、眺めているだけだった。
彼女が望んだわけではないのに、
榎本帆南さんは、男に媚びて、取り入って
地位を築こうとしていると思われている。
下らない。
世俗は、いつも、
本質を、何も見ない。
見ようとすら、しない。
その彼女が、今や、物理的に陥れようとされている。
社内の女子からも浮き上がり、
彼女の身体を持て余した野獣たちから、
切り捨てられようとしている。
下階の化粧室で、涙を流せなくなった顔と、
蒼白な手の甲の震えを捉えてしまった時、
私は、安穏たる余生の枠から、
ほんの少しだけはみ出る決心をした。
*
「確かに、まずい状況ですね。」
千里さんも、気づいていたのだろう。
社内事情通に復した彼女が、気づかない訳がない。
「でも、正直、意外です。
植村さんが、榎本さんを気に掛けられるとは
思ってもいませんでした。」
私と、同じだと。
地方から上京し、無残に食い散らかされ、
棄てられる運命なのだと。
私が抗えなかったことを
私が見過ごそうとしてきたことを。
「分かりました。
湯瀬さんとも相談します。」
目の前の若い彼女達なら、
悪意に満ちた悲劇に陥る定めを、
動かせるのかもしれないと。
「クリーナーの方々ですね?」
……分かられている。
当然のこととはいえ。
*
千里さんは、人事二課の課長補佐へと栄転し、
本来のキャリアルートへと戻った。
代わりに、調査一課の半開きの扉を揺らしたのが。
「先輩、今日はどこ行きましょうかっ?」
見違えるほど瞳を輝かせるようになった榎本帆南さん。
全社有数の美女に成長してしまった彼女は、
小辻静君に大きな犬のようにまとわりついている。
向けられた好意は誰が見ても明らかなのに、
小辻静君は、それに気づいた様子もない。
それよりも。
湯瀬課長は、小辻君に向かって
ありえない人物の名を口に出していた。
榊原、晴香。
世俗に疎い私でさえ知っている名前だった。
元芸能人である湯瀬課長からの紹介なのか、
広報課に属しているわけでもない、
地方出身の一般人そのものである小辻君が、
国内有数の有名若手女優と接点を持っている。
理解が、追い付かない。
「駅前のめぼしそうなところは一通り共有しましたから、
駅向こうにしましょうよっ。」
「帰ってこられるところにしてね。
こないだ、往復
「あれはスリル満点でしたねっ。
あ。
いっそ、時間休、取りましょうよ。」
「お昼ごはんのために?」
「そうですよっ。
一生は有限なんですから。でしょ?」
明るく、微かに甘えるように話す榎本さんが、
20年以上前の私と、重なって見える。
成就、させてあげたい。
私が進めなかった、
人としての幸せな道を歩ませてみたい。
*
今から、23年前。
私は、生涯で
ただ一人の交際相手を、奪い獲られた。
神林健道さん。
私には勿体なすぎるお相手だった。
健康な四肢と、少し歯並びの悪い、
笑うと頬が少し歪む精悍な顔立ち。
どういうわけか、そんな彼が、
私に交際を申し込んでくれた。
その先のお申出の欠片でもあれば、
絶対に、受けるつもりだった。
出会った瞬間に、そう、言えれば。
交際が始まった瞬間に、
積極的に誘い入れ、既成事実を作れれば。
男性との交際を厳格に禁じられ、
箱の中で育てられていた奥手な私に、
そんな発想、出るわけもなかった。
六カ月の幸福な交際の後、
私は、突然、健道さんを奪われた。
「親父が、自殺しかけた。
この手しか、ないんだ。」
地方財閥の娘。
娘本人というよりも、狂信的に遺伝子を信仰している両親が、
全ての要素が揃っている健道さんを、見初めてしまった。
抱えきれない負債を背負った両親を憂う健道さんは、
苦しみに苦しみ続けた。
私の両親は激怒し、健道さんとの縁を切った。
今にして思えば、相手方から、
札束の媚薬を嗅がされていたのだろう。
駆け落ちを決める度胸もなかった私が、
心に溢れ出る涙を封じながら、
身を引く言葉を告げようとした時。
「ほんとうに非常識なことを言う。
二十五年間、待ってくれないか。
向こうは、俺の種が欲しいだけだ。
俺が種を育て上げれば、それで役割は終わるはずだ。」
冗談に紛らわせるように、力なく言った、
ありえるわけがない言葉。
私が、虚しく笑いながら断るだろうと思った言葉。
もう五年早ければ、
もう五年遅ければ、
私とて、こんな返答をするわけがなかった。
「わかりました、健道さん。
私は、謹んで、貴方をお待ち申し上げます。」
若すぎた私が、勢いと、微かな反発心だけで口に出した時、
はじめて、心の奥底からわかってしまった。
顔に似合わず不器用で非常識で、
誰に対しても誠実に生きようとしてきた目の前の人が、
私の生涯、ただ一人の運命の人なのだと。
*
私が一風変わった社内ネットワークを持ったのは、
ただの偶然に過ぎない。
独り身の土曜日。
寂しさを埋めるためだけに選んだアルバイトが、
たまたまルームクリーナーだっただけ。
ルームクリーナーに親しみを感じた私が、
湯瀬課長のヘルプに応じ、
人事課の短期アルバイトの選考を手伝っただけ。
庶務課のヘルプで相談事を処理し、
湯瀬課長を見習って、昼食を一緒にしただけ。
日本語学校への案内書を手渡し、庶務に予算をつけただけ。
親しくなった彼女達は、私を頼ってくれた。
私は、彼女達から期せずして得られるようになった情報源を、
榎本さんを陥れたオトコ達を監視するために利用した。
事は、まだ、
終わっていないように感じていたから。
哀しいことに、
私の直観は、正しかった。
大手芸能事務所での告発によって
社外の性目的の女性調達ルートに支障を来した営業部の、
一部の若手社員が、実益と欲望を兼ね、
榎本さんに再び目をつけていた。
社内の女子ネットワークに軽蔑され、
匿う人がいない榎本さんであれば、
容易く言うことを聞かせられるだろうと。
非常識、かつ短絡的に過ぎる発想は、
しかし、不気味なほど執行力を伴っていた。
警備、監査、研究、営業。
社内人脈の先に見える人物を、
私は既に、特定していた。
と、同時に。
私の手には余ることは分かり切っていた。
湯瀬課長に報告した時、
湯瀬課長はどちらにつくか。
そもそも、湯瀬課長も、分からないところが多い。
私の知らないところで、誰と繋がっているか、
何の目的をもって動いているか。
千里さんでは、足りない。
叛逆され、潰される可能性が高い。
社内のネットワークの弱い小辻君に相談できるわけはない。
それに、小辻君こそ、逆恨みの被弾を受けかねない。
どうすればいいのか。
誰が敵で、誰ならば頼れるのか。
私は、能面を着けた心の内で思い悩みながら、
ただ、虚しく時間を空費した。
*
「湯瀬さん、向こう側と通じてますね。
手回しが早すぎます。」
千里さんが厳しい顔をしている。
榊原晴香が所属する事務所社長が、火災事故で重傷を負った。
小辻君は、事務所に乞われて、
榊原晴香の住むマンションの隣に部屋を取ったのだと言う。
その部屋を迅速に確保したのが、湯瀬課長だと。
「湯瀬さんからすれば、自分の最も信頼できる部下を、
一ノ瀬女史の傍につけたいのでしょう。
例の百五十周年事業の件もありますし。」
営業、広報、経営企画、研究所、海外部局、国内・海外の投資家筋。
社長の座を巡る暗闘の妥協として、
落下傘的に降りてきた官僚出身の槌井社長は、
ただのセレモニーである百五十周年事業を、
自分の権力基盤の確立手段として使おうとしている。
「湯瀬さんが一ノ瀬女史に接近しているのは、
社長の意向もあるようです。
だとすると、晴香ちゃんと小辻君の関係も、
社長室なりが把握している可能性があります。」
そこまで、とは。
「小辻君も、背景がいろいろ分からない子ですから。
ただ、小辻君が榊原晴香と付き合ってしまうと、
帆南ちゃんは。」
心が、ぼきりと折れ、
膝から床に崩れ落ちる音が、聴こえた気がした。
「私達としては、槌井社長に
社内の権力基盤を確立頂いたほうが有難いんです。
国内・海外事情の両方に明るく、
バランス感覚を持ちながらも、女子社員の登用にも積極的です。
……なので、
ただでさえ女子社員から軽蔑されている
帆南ちゃんの立場は、圧倒的に不利ですね。」
本人たちの気持と無関係に、
外の側から、人生の枠が決められてしまう。
塞がりかけて久しい筈の過去の傷が、激しく疼く。
「まぁ、小辻君も、抱えてるものがあるようです。
大人しそうに見えますが、
激しやすいものを持ってますから。」
「貴方に別れろと言いましたね。」
「あはは、そうそう。
もう、懐かしいです。
その節は植村主幹にもお世話になりましたね。」
私は湯瀬課長に操られただけ。
何も、していない。
「いずれにしても、
晴香ちゃんをこれ以上妨害するのは危険です。
帆南ちゃんの側から動かしていくべきでしょう。」
そう言いながら、
千里さんは、湯瀬課長の
榎本さんのRINEに、さらりと送信した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます