第68話
遡ること、二日前。
12月23日。
舞台の通し稽古終わり、
撮影前の、猫の額のような時間に。
「……ここなら、お会いできると思ったんです。」
たし、かに。
はじまりの台湾料理屋も、フォーの店も、
イベリコ豚やロシアンハンバーグの店すらも、
いまや、どこで足がつくかは分からない。
でも。
名門老舗ホテルの地下商店街。
凶悪な価格帯が並ぶブティックの奥にひっそりと佇む高級老舗和菓子店の
さらに奥、客がいるのをほぼ見たことがない茶廊。
ホテルに合わせてシックな装いに身を固めた
正規社員の店員は、高級店一流の秘密厳守を旨とし、
万が一、客がいたとしても、はるなさんの存在を告発することはないし、
スマホのカメラで収めようとなどとはしない。
はるなさんは、驚くほど、そのままの姿だった。
天才若手女優、榊原晴香の輝かしい姿でもなく、
なんらかの役を背負っているわけでもなく。
ただ、ありのままの、
あの部屋で過ごした、はるなさんのままで。
たった、一人で。
榎さんすら連れずに。
静かすぎる商店街の、一番奥に。
「……あの時も。」
はるなさんは、上気した頬を赤らめている。
「……分かってたんです。わたし。
静さんが、わたしを拒むだろうなって。」
あぁ。
当たり前、だ。
天才女優だ。空気の微妙な流れ、分からないわけはない。
まして、ポーカーフェイスが苦手な僕なんて。
「それでも、お会いできるだけで、
吐息を、鼓動を感じられるだけで、身体の奥底がぶるって震えて。
ひょっとしたら、ひょっとしたら、振り向いてくれるんじゃないかって思って。
どうしても、どうしても、そばにいて欲しくて。
こんなこと、生まれて、はじめてで。」
はるなさんは、踊るように、脈打つように話しはじめる。
「わたし、生まれてはじめて、
わたしで、息が、できたんです。
誰かを、何かを、被らなくても、話していられたんです。」
いかに、過酷な生涯を、数奇な運命を辿って来たか。
「わたし、
それが、途方もなく嬉しくて。」
はるなさんは、
謳うように、休めていた羽を広げるように。
「演技をしなくても、わたしが、わたしのままでいられる世界は、
なにもかも、新鮮で、瑞々しくて。
風が、景色が、音を奏でて色づきはじめて。
静さんの口元に食べ物が入っていくのを眺めるだけで、
静さんのお声が耳から身体に流れてくるだけで、
静さんが目を合わせて下さるだけで、瞳に吸い込まれるだけで。
ただ、静さんのそばにいられるだけで、
わたしは、涙が出て、身体中が狂おしく嬉しくて、
世界中の言葉を集めても足らないくらい幸せで。
わたし、
ほんとうに、舞い上がっていました。
……だから、気が付きたく、なかったんです。
わたし以外にも、静さんが欲しい人がいることを。
この広い宇宙に、静さんしかいない人がいることを。」
人通りのない、驚くほど閑散とした大理石の商店街に、
はるなさんの侘びしく通る声が溶けていく。
「……あぁ、失恋って、こんなに辛いんだ。
恋なんて、しないほうがいいんだ、って、
その気持ち、ものすごくわかりました。」
こちらが話すよりも、ずっと前に。
はるなさんは、わかってしまっていた。
「静、さん。
……わたし、が、
未成年、だから。
騒がしい世界にいて、周りの方々に、
そして、静さんに、ご迷惑が、かかる、から。
そう
です、よ、ね……。」
「……。」
そうでは、ない。
(年齢差とか、立場とか、将来がどうとか、
そういう詰まらない理由で選ぶのもお止めなさい。)
どちらかといえば。
「貴方の存在が、いとしすぎるから、です。」
「ぇっ。」
堪えながらはらはらと零れ落ちていた涙を止め、
心底、意外そうに口を小さく開ける。
そんな仕草すら透明感に溢れ、神々しいまでの生命の息吹に包まれている。
「桑原春菜さん。
貴方の、人としての生涯を御支えするには、
これが、最善手であると、確信しています。」
*
「静くんなら、私の遺伝子が入っている子を、
愛してくれるんじゃないかなって。」
「そんな都合がいい話がありますか。」
「私が歳を取ったから、
私が御手付きだから、
愛してくれなくなったの?」
「その両方です。
そして、そうでない理由含めたすべてですよっ。」
……どうして帆南さんが答えるの。
「だって、ふざけてるでしょ、この人。
実の妹でしょ?」
「片方だけね。」
「立派な兄妹です。近親相姦です。刑法犯です。
絶対ダメに決まってるでしょっ。」
「あはは、帆南ちゃん、私に当たり強すぎ。
地上最強の天使を兄さんの気まぐれで躱したからって。」
「あなたね
……んばくんっ。」
まぁまぁ、帆南さん。
「っていうかさ、それなら、ただの姪っ子でしょ。
親戚としての愛情は注ぐよ。
お年玉とか、たまに遊びに来るとかくらいは。」
「……うん。
それで、十分なんだけど。」
「な、なら、
い、いままでのはなんだったんですかっ!」
「んー?
揶揄ってみただけ。暇つぶし?」
雪乃ぉ……。
変わらないな、無意味な毒舌。
「じゃね、お二人とも。
よいお年をっ。あははっ。」
言うだけ言って、去ってっちゃったよ。
っていうか、なんで雪乃、ココに入れたんだ?
コンシェルジュ、強化したんじゃなかったのか。
「……それにしても、ほんとにいいんですかね。
わたしがここにいても。」
「いいんじゃない?
追い出されるまでは。」
「……そういうところ、たまに、
物凄く軽いですよね、静さんって。」
「ですよね。」
「そうそ
……
はる、ちゃん。」
え。
はるなさん、撮影中じゃ?
「あはは。
すっごい頭に来ることがあって、
撮影、バラシちゃったんです。」
えぇ??
我儘女優みたいなことを。
「なんて。
撮影、珍しく早く終わりました。
誰も台詞を噛まなかったので。奇蹟でした。」
あぁ、また天才がさらっと残酷なことを言ってる。
台詞を噛まないことを未熟な全俳優に強制してるわけだから。
「コンシェルジュ、いろいろあって、
警備もネット系に強い会社にお願いするみたいです。」
え。
「ここ、引き払うんじゃなかったの?」
こないだ一ノ瀬さんに聞いてたことと少し違う。
「わたしが美智恵さんにいっぱいゴネまくりました。」
ゴネる……。
また悪い言葉を教えてるな、留美さん。
「だって、こんないいお部屋、ないです。
こんな近くで、わたしと静さんがぴたっと繋がれるお部屋なんて。」
つ、繫がれるって。
「帆南さん。」
「っ。」
なにかを言い出そうとした帆南さんが、
はるなさんにぴたっと片手で制された。
「帆南さんと、わたしの年齢差は、8年ですね。」
帆南さんは26歳。
はるなさんは、18歳になった。
精確には8年半なんだけど、ちょっと縮めて言ってる。
「8年間。
もし、静さんが少しでも不幸せそうにしていたら、
わたしは、容赦なく、貴方から静さんを奪います。」
え゛
「結婚しても、大丈夫ですよ。
わたしは、静さんが最後に眠られる時に、
静さんのお傍にいられれば、それで。」
う、わ。
なんて、ことだ。
そんな風に、言われてしまったら。
「……ご安心ください。
そんな機会、一生巡ってこないように、
静さんを、これ以上なく幸せにしますから。」
ね。
ね、って顔、されましてもですね。
「ふふ。あはは。
それと、帆南さん。わたしのお仕事、支えてくださいね?
静さんが、そうおっしゃったんですから。
そのために、わたしとの交際を反故にしたんだって。」
ぐは。
そこまではっきり言ったつもりはないんだが。
「知ってました?
失恋は女を強くするんです。」
あぁ、確かに。
女優としての幅は、間違いなく広がったんだろう。
ただ。
「ふふ。
この距離感のほうが、静さんのお顔、しっかり見れます。
誘惑、しちゃえますね。」
え゛
は、半歩、詰めて
「ちょっと前、役で演りました。
評判、良かったんですよ。
料理と違って、ちゃんと、できましたから。
あはは。
ね、試して、みます?」
ぐ
……っ
「……静さん。
もう、かるかんはいいですからねっ。」
おわ。
バレ、てる。
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