第60話

 

 「いますぐ奪いたいに決まってるよっ!」

 

 「!」

 

 ……唇、切れてるだろうな。

 ヒリヒリ傷むもの。

 

 「……でも。

  帆南さんは、榊原晴香のファンだし、

  いま、仕事でついてる相手、だよね。

  

  こんな形で、なし崩しに進んでしまったら、

  僕たちは、はるなさんに対して、裏切者になってしまう。

  ファンなのに、彼女の精神を壊してしまったら、

  帆南さんは、耐えられなく、なる。」

 

 「……。」


 「どんなことがあっても、これは、だめだ。

  こんな形は、ぜったいに、だめなんだよ。」

 

 なし崩しに進んだものが、

 なにか形になったことなんて、僕の人生では、一度もない。

 僕が生まれてしまったこと自体が、間違いだった。

 据え膳食わねばなんて真っ赤な野グソだ。


 「……違い、ます。

  違い、ますよ。

 

  わたしは、晴香ちゃんを、

  世界のすべてを敵に廻してもいい。

  たとえ、神を敵に廻してすらも。


  静さん。

  わたしは、、静さんが、欲しい。」


 「……だめ。

  だめ、だよ。

  世界のすべてを敵に廻して、よかったことなんてない。


  かならず、はるなさんを、

  帆南さんが一番大切にしている『推し』を裏切ることを後悔する。

  その十字架は、いまの帆南さんが思っているよりも、

  ずっとずっと、重苦しく伸し掛かって、一生を圧し潰し続ける。」

 

 「それでも、いい。

  それでもいいんです。

  わたしは、たったいま、悪魔にわたしの魂のすべてを売り尽くしてもいい。」

 

 「それなら、帆南さん。

  どうしてあの時取材、はるなさんを突き放さなかったんですか。」

 

 「……。」

 

 「はるなさんは、あの瞬間、絶望に染まっていました。

  覚悟をしていた眼でしたよ。

  なのに、帆南さんは、決断をされなかった。

  

  それは、はるなさんが、

  帆南さんにとって、唯一無二の、

  かけがえなどありようもないくらいの、護りたいひとだからでしょう。」

 

 「……っ……。」

 

 「少なくとも、いまはるなさんが大切にしている映画のクランクアップまで、

  僕は、帆南さんにも、はるなさんにも、一切、手出しはしません。

  我が社の出資が入っている正規業務を妨害するわけにはいきません。」


 「……ひどい、です。

  本当に、ずるいですよ、静さん。」


 へたれだと罵るやつはそうすればいい。

 これは、僕の矜持だ。

 呪われた血に生まれついてしまった僕が、

 せめて、持たなければならないもので。


 「……。」

 

 沈黙が、僕たちを覆っていく。

 こんな時なのに、嫌な感じはしなくて、

 それどころか、

 

 「静、さん。」

 

 帆南さんが、明るい声で、沈黙を破る。

 

 「いまのうちに、

  わたしから、逃げてください。

  

  でないと、わたし、

  絶対に、襲っちゃいます、から。」

  

 帆南さんは、乾いた声で笑おうとして、泣声が混ざっていく。

 こんなの、どう考えたって。

 

 だめだ。

 だめだ、だめだっ!

 

 「帆南っ。

  きみは、もんのすごくいい女だっ!

  いますぐ犯してやりたいんだよっ!!」

 

 全速力で一度離れ、ドアに向かって。

 

 だめ、だ。

 

 (首、吊ってたかも)

 

 そのままおいては、いけない。

 

 靴を脱ぎ捨てて部屋に戻り、

 帆南さんを、優しく抱こうとしたのに、

 

 (!)

 

 手が、腕が、

 強く、荒くなってしまって。

 

 「!?」

 

 「こ、

  これが、あ、証だよっ。」

 

 あぁっ。

 胸が、身体が、温かい。

 どくどくとした互いの心臓音が、脈打つように繋がってしまう。

 

 「ほんと、ほんとに、ほんとに

  い、いますぐ抱きたいんだよっ。

  僕の存在すべてが恨めしいよっ!」

 

 今度こそ、振り返らずに部屋から去って行く。

 そうしないと、帆南さんを襲った不実な野郎に、

 自分の穢れた血の由来に堕してしまうから。


*


 はぁ。


 ………は、は、恥ずかしいっ。

 あ、あれしかなかったとは思うけど。


 (いますぐ襲いたいに決まってるよっ!)


 ……

 なんて、はしたない……っ……

 自己嫌悪どころじゃないな。

 

 ああぁぁぁぁぁぁ……


 ……課長とかなら、こういうの、

 もうちょっとスマートにできるんだろうな。


 あぁぁぁぁぁ……。

 なんかもう、ほんと、中学生みたいだ。

 ちゃんと体験、してるはずなのに。

 

 ほんと、なんてことを。

 穴があったら錘をつけて沈みたい。

 

 あぁ。

 なんか、夢に出ちゃいそう。

 

 ……

 暖か、かった。

 柔らか、かった。


 抱きしめ、たかった。

 繋がり、たかった。

 心の底から、たまらなく、愛しかった。

 

 ……なんだ、これは。

 本当に中学生レベルじゃないか。

 

 そりゃまぁ、中学の時なんて、なにもできなかったから。

 雪乃とは、高校にあがって暫く経ってから、

 なしくずしみたいなもので、すごくいいものとは思わなかったし。

 

 (ちょっと自慢だったな?)

 

 14歳、か。

 いいなぁ。そんな速さで体験できていれば、

 僕ももっとスマートに一生を送れたんじゃないか。

 

 ……それが幸せに繋がるか、一概には言えないか。

 寺岡さんだって、変なオトコに捕まっちゃったわけだし。

 

 まぁ、

 あの頃の僕陸上少年が、そんな発想になるわけ

 

 ぶーっ

 

 <お楽しみだったかい?>

 

 ぶっ。

 なんだよ、もう。

 

 <そこまで堕ちたつもりはありません>

 

 <はは、それはまたなんともきみらしいね。

  で、帆南ちゃんの件、もう少しだけかかるから。>

  

 ……

 意外に根が深いのかな。

 

 <明日きみが出社したら説明できるようにするから。

  あと、帆南ちゃん家、うちのを向かわせたから。>

 

 え。

 

 <知らないうちに仲良くなってて、びっくりしたよ。

  僕より懐いてるかもしれないよ?>

 

 うーん。

 皮ジャンを褒めただけじゃなさそうだな。

 まぁ、撮影の時に仲良くなってたかもだけど。

 

 <じゃ、またあした。>

 

 <はい>

 

 <(『合体』のスタンプ)>

 

 ……どういう意味??

 ったく、不誠実だなぁ。


*



 ……朝、か。

 

 はるなさんは、撮影だ。

 一昨日、無理をして夕方をもぎ取ってしまったこともあり、

 ロケ先近くの宿長野県で拘束されている。

 宿のご飯が美味しくないらしいけど。

 

 『あたりまえは、だれかがしっかり作っている』

 

 ……ひとことも、声を発しなくても、

 豊かな表情と身体演技で、ゆらぎに満ちた深い世界を作れてしまう。

 人を引きずり込むような、人の心の襞を掻きむしってしまうような、

 透明で、儚くて、全人類が護りたくなるような笑顔を。


 文字通り、天才なのだろう。

 帆南さん、デビュー直後くらいからずっとウォッチしてたって言ってたから。

 

 ……帆南さん、か。

 

 やばい。

 、思い出しちゃう。

 

 ……あぁ。

 この身体、ほんと、呪われてる。

 血という血をすべて入れ替えたい。


*


 「や。

  おはよう、小辻君。」

 

 どんなことがあっても、湯瀬課長の落ち着いた笑顔は変わらない。

 ほんと、とんでもない人だと思う。


 「ふふ。

  朝からなんて顔してるの。」

 

 え。

 

 「三か月したら課長補佐になるんだから、

  それ、なんとかしないとだよ。」

 

 昇進しなきゃいいだけだと思うけ……

 わ、わかりましたってっ。

 

 「あはは。

  じゃ、ちょっと下に降りようか。」

 

 ん?


*


 うわぁ……。

 まだ、朝なのに。

 時の流れ方が、全然違うな。

 

 「こういうところのほうが安全かなと。」

 

 前の職場なら、定時中にこんなところ来たら懲罰もんだなぁ。

 そもそもこんなところ、ないけど。

 

 会社にほど近い区画の高層マンションの上層階に設置された会員制ラウンジ。

 なんでこんなところ知ってるっていうか、入れるんだか。

 

 「近場だから、ちょっと狭いんだけどね。」

 

 いやもう、十分です、十分。

 なんだこりゃ。朝なのに夜みたいだなぁ。

 ホントにずっと真夜中みたい。

 朝なのに、なんで外の光を入れないのかな。

 

 「ふふふ。

  ココにしたのはね、

  きみが気に入るかな、って思ったんだけど。」

 

 ……ん?

 

 「チョコレート、ですか?」

 

 「そうそう。

  まぁまぁ、おひとつどうぞ。

  ほら。」

 

 勤務時間中なのに。

 ……ん……

 ……ん?

 

 んっ!?

 

 「ね。」

 

 こ、これは……。

 

 マカダミアナッツだ。

 んで、うわ、オーソドックスなショコラでコーディングして、

 中にホワイトチョコと、あ、これ、塩だ。岩塩?


 うわ、なんだこの締まったハーモニー。

 ヤバいこれ、めっちゃ旨い。

 

 「スペインのチョコ。

  下に出したら流行るかもしんないよ?」

 

 うっわぁ……。

 あー、これ、止まらないわ。

 うまい、上品なのに、濃厚に甘い。

 マカダミアナッツの歯ざわりがあって、最後に抜けるような岩塩が締めてくる。

 

 「……こういうとこ、紹介しては、

  夜にいざなっているわけですか。」

 

 「ははは。

  そういう目的でココを使ったことはないなぁ。」

 

 ……引出、ほんっと広いなぁ。

 

 「きみにはいろいろ驚かされてるから、

  こっちもたまには趣向を凝らしてみただけ。


  それで、社内で話せない話のほうをね。」

  

 あ。

 そうか、こればかりは。

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