完結編

第54話


 雪乃。

 ゆきの。

 

 僕が生涯を掛けて愛すると誓った娘。

 僕が初めて愛を交わし、通じあった筈の娘。

 僕に罵声を浴びせながら容赦なく裏切り、資産家の男に乗り換えた娘。


 どうして。

 なぜ。

 いまになって。

 呪われた僕の前に、どの面を下げ


「静さん、香箱蟹っ!」


 はっ!


 そ。

 そうだ。

 僕の目の前に、天国が広がっているじゃないか。

 

 絶望など、する必要はない。

 地上は、美しい。

 日本海から水揚げされた新鮮な蟹は瑞々しく、甘くて美味しい。

 なんと素晴らしい世界だろう。


 うん。

 うんっ。


「長らくお久しぶりですね、林崎さん。

 お元気でしたか?」


「……

 静くん、だよね?」


 は。

 ど、どんなテンションで雪乃と話してたっけ、僕。

 だめだ、脳神経の動線がめちゃくちゃに絡まりまくってる。


「……はは。

 なるほど、思った以上だね。」

 

 なに高見の見物決め込んでるんですか、課長。

 ストライプスーツ着てるとインテリヤクザ感半端ないんですが。


*


 間人蟹。

 そしてメスの香箱蟹。


「……。」


 職人技術の粋を尽くして引き出された

 ズワイガニのメスの暴力的な甘味が口を通じて脳漿を直撃し、

 全身がマグニチュード9の大揺れに打ちのめされる。


 本当に美味しいものを食べると、言葉にできない。

 壮絶な驚きの前に、これまでの語彙がすべて無駄になる。


 あぁ。これがまだ5品目だなんて。

 デザート含めてあと11品もあるなんて凄まじいことこの上ない。


「ははは。

 小辻君は本当に美味しそうに召し上がられますね。」


 あぁ。

 神はおわしました、我が目の前に。

 拝みたくなってしまう。アーメン。

 願わくは神の御許に向かわせたまえ、って死ぬじゃん。


「ときに。

 先ごろ、百五十周年の記念CM映像を、先方より納品頂きました。」

 

 あぁ。

 遂に、か。

 

「先般の試写会に参加できませんでしたから、はじめて見ましたが、

 私の想像を遥かに超えた、素晴らしいものでした。」


 最終商品を作っていないうちのようなメーカーにとって、

 イメージCMの意味があるかは正直分からないものもあるが。

 まぁ、記念事業だし。


「榊原晴香さん、圧巻の演技力ですね。

 恥ずかしながら、年甲斐もなく涙が出ましたよ。

 一ノ瀬さんが長年秘蔵されておられたのも分かる気がしました。」

 

 黄昏が降りる前の不安な曇り空。

 わりとシリアスなCMで、はるなさんが取り残されて一人で佇んでいる。

 その表情は、あまりにも切なく、見るものの胸を激しく衝く。


 そこに画面外見えないに待ち人が現れ、はるなさんがゆっくりと表情を花開く。

 雲の切れ前から、淡く注ぎ込む日の光に照らされたはるなさんが、

 流れ出る涙の雫を払いながら顔面アップ、大きく、強く手を振り続ける。


 『あたりまえは、だれかがしっかり作っている』


 あのアップの映像は、全国民が泣くだろう。

 感情の微細な動きと、揺れ動く落差を表現する能力が神がかっている。

 ヘタしたら10年先まで残るかもしれない。


「あの出来なら、SPC特定目的会社の設立を阻むものはないでしょう。」


 ん?


「榊原晴香さんが主演される映画ですが、

 我が社も製作に一枚噛むことになりましてね。」


 え。

 アニメ原作の実写版に、

 うちみたいな素材メーカーが出資するの?


「広報と異なり、投資ベースです。

 収益性は十分あると判断しました。

 ややspeculativeですが、過去に例がないわけではないと。

 出資額もそれほど大きくはありませんし。」


「……ちなみに、いかほどでしょう。」


「あなたにならいいでしょう。

 5億円です。」


 ぇ。

 ええっ!?!?


「諸々考えると、この程度は要るだろうと。

 まぁ、欠損が出るならば、1億までは私が被る予定ですが。」


 えっ。


「退職金をすべて。

 それくらいの気概がないと、

 一ノ瀬さん達のお相手はできませんよ。はは。」


 ……スゴイ、な。

 同じ役人あがりでも、こうも違うものか。


「唐墨餅の大根霙でございます。」


 うわっ。

 こんなの、見たことないな。

 唐墨を餅で包むっていう発想自体がないわ。

 

 霙を潜らせた餅を割ると、中から黄金色のからすみがこんにちは。

 あー、これはもう、やばいやつだ。

 

 あむっと。

 

 ……こ、これは。

 餅、炙ってあるんだ。

 ……おお、なんという滑かな塩気のバランス。

 あぁ、この大根めっちゃ高いやつだ

 ……雑味がないっていうか、甘いけど、うわ、合う、合うっ。


「!?」


 ん?

 どうしたんだ、帆南さん。

 感動のあまりのたうちま


「し、

 し、静さん、静さんっ。」


 ?


「あ、あのっ、

 あ、あ、

 あちら、あちらっ。」


 ん??

 社長の向こうにいるのは……

 誰だ?


「……はぁ。

 静さん、テレビ、見てないんですもんね。

 海原千草さんですっ。

 泣く子も黙る歴史的大女優、超大御所さんですよっ。」


 あぁ……。

 なんか、子どもの頃にうっすら見たような気が。


 うーん、薄金色の和服をしっかり着こなしてるなぁ。

 高級和食屋の背景がまるでセットのようだ。

 社長、なんで知り合いなんだろな。

 

 つっても、僕、広報でもないしな。

 ただの一社員にでしゃばる余地などなしなし。

 あぁ、からすみの鮮やかな塩気の余韻が口の中に


「小辻君。」


 !


「はい。」


「こちら、海原千草さん。

 ご存知でしょうが。」


 知らない。

 うすぼんやりとしか。


「お会いできて大変光栄です。」


「あら貴方、

 私のことなんてご存知ないでしょう。

 さきほどから随分と蟹のほうにご執心だったようですけれど?」


 あらら。バレてる。

 唐墨のほうだったんだけどね。

 後ろで帆南さんがピキっと固まった音がした気が。

 

「大変失礼ながら、詳しくは。

 ……亡くなった母がテレビで拝見していたことは覚えておりますが。」


「そう。

 ふふ、思ったより正直な方ですのね。

 あの晴香ちゃんが懐いてるっていうから、

 どんな方かと思っていたけど。」


 え。


「この仕事をしてて、

 榊原晴香を知らない者なんているわけないでしょう。

 私だってまだまだ現役のつもりですよ。」


 でしょうね。背筋がぴんと張ってるもの。

 歳を召しているのに、顔には皺が四方八方に刻まれているのに、

 凜として、犯しがたい威厳がある。


「私、あの子は与えられた役以外、

 一切喋れない子だと思ってたから、

 こないだの舞台は本当にびっくりしましたよ。」


 あぁ。

 夕飯が食べられなかった怒りが炸裂したやつね。


「女優なんてのはね、ロクなオトコを捕まえられないの。

 槌井さんみたいな身持ちの堅い方はね、

 親し気にお話はして下さるんだけど、心は開いて下さらないものよ。」


 は?


「はは。

 覚えて頂けていたとは、大変光栄ですな。」


「ほら。

 嫌味な殿方でしょう?」


 二人とも朗らかに笑ってるけど、どうにも躱しづらいな。


「だからね、小辻さん。」


 え。

 なんか、こういう人に直接名前を呼ばれるのは違和感あるな。


「はい。」


「どうか、晴香ちゃんを、

 いさせてあげてくださいな。」

 

 ?

 

「これはただの年寄りのお願いですよ。

 人でなくなった修羅の道に堕ちた者が、

 私の廻りを通り過ぎてゆきましたから。

 貴方もと思いますが。」

 

 っ……。


「……先生、そろそろ。」


「あらやだわ私ったら。

 お懐かしいお顔を拝見したものですから、つい。

 それでは、ごめんあそばせ。」


 ……凄い威厳の持ち主だった。

 業界の中で偉い人っていうのはホントなんだろう。

 って。


「……。」


 どうしたの? 帆南さん。


「え。

 か、カメラ、と、撮れたのにっ……。」


 撮影禁止だと思うよ、こういうトコは。

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