第49話



「あの時、

 僕が洋子さんを強姦したって、脅しに来たの?」



 言って、しまった。

 隣で、帆南さんの身体が固まる振動音が、はっきりと聴こえた。


 でも。

 後戻りは、もう



「……

 なんの、こと?」



 ……


 え。

 えぇぇえっっ!?


「い、いや、

 わ、忘れてるのっ。」


 忘れてる。

 わすれ、てるっ……!?


「……

 ほんとに、何、言ってるの?」

 

「だ、

 だ、だって」


「……

 あぁ。

 ひょっとして、あの。


 馬鹿じゃないの。」


 ……ぇ。


「あの時は、私達、

 まだ、付き合ってたでしょ。」


 そ、そうだけど。


「あ、あの日は、

 洋子さんに別れを告げられた日だよ?」


 『暴行、又は脅迫を用いて,

  女子を、姦淫した者』


「そう。」


「だから。」


 あの、人として最低の行為は


「言ってるでしょ。

 あの時はまだ、私は、静の彼女だった。」


 ……

 ぇ


(なんで、

 なんで、

 

 なんで…………っ!?)


「だって、あんな、嫌がって」

 

 怒りを、

 絶望を、

 汚れた欲望を、

 穢れた血を、


「……ほんと、バカね。

 嫌だったら、蹴り倒して布団から出てったわよ。」


 ……。


「……

 どうして、よりによってに手を出したの。

 いつなのか、今日こそかと待ってたのに。」

 

 待ってた、って。

 だって、金持ちのオトコと


「お金が必要だったのは本当。

 お父さん、病気で会社クビになって、

 大学の授業料美術大学、払えなくなってたから。」


 ……そんなこと、ひとことも。


「非常勤の静にお金がないことなんて、分からないわけないでしょ。

 静なら、借金、背折っちゃいそうだったから。

 甲斐性なしの癖に。」


 ……。


「でも、ほんとは、そうして欲しかった。

 あの時、私は、静に助けて欲しかったんだよ。」


 ……。

 そん、な……。


「滅茶苦茶言ってますね、貴方。

 大学を中退するか、休学するかできたでしょう。

 奨学金を獲る選択肢もあったでしょうに。」


「父が倒れたのは急だったから、

 今年のは取れないって。」


「緊急の借入先なんて、本気で探せばすぐ見つけられたでしょう。」


「そんなもの


「違います。違いますよ。

 貴方の苦境は痛いくらいわかりますよ。

 でも、静さんを肥やしにしようとした貴方は、絶対に間違ってる。」


「こ、

 肥やしになんて


「貴方の旦那の金持ちのオトコは、

 若い貴方を静さんから略奪することに興奮してたんじゃないんですか。」

 

 っ!?


「……

 あんたって、趣味悪いこと考えるわね。」


「わたしが考えたんじゃないですよ。

 わたしの元交際相手柏井営業本部長が考えそうなことを言ってみただけです。」

 

 ……あぁ。

 わかりみが、深すぎる。


「……そう。

 そう、なの……。」


「わたしなら、命より大切な人を肥やしになんて、絶対にしない。

 必死で実入りのいい仕事を探して、静さんを、養います。」


 ……はは。

 ヒモになっちゃうんだ、僕。


「……田舎にはないわ、そんなもの。

 どこにも。」


 ……それは、そうだ。

 東京とは、実入りの桁が違う。


「わかりますよ。

 わたしだって、田舎から出てきたんですから。」


「じゃぁ。」


「それを分かって言ってるんです。

 わたしなら、身を売ってでも、静さんを養います。

 買ってくれる人がいるか分かりませんけど。」

 

 ……はは。

 ははは。


 男性二人から地獄に叩き落されても、

 全てのセクションの女子社員から嫉妬と蔑視の眼を向けられても、

 一切感じさせずに、輝きを放ちながら進んでいける。


 榎本帆南さんは、

 ほんとうに、凛々しい。


「……なんとでも言えるわよ、そんなこと。」


「そうかもしれませんね。

 どちらにせよ、貴方はいま、その金持ちの配偶者でしょう。

 夜中に独身男性の部屋に入るのが、どれだけ非常識か。」

 

 いや、それ、帆南さんにもそのまま


「別れるわ。」


 ……は?


「若い女にずっと入れあげてるから。

 知らないフリをして耐えてきたつもりだけど、

 家にあげられちゃったら、さすがに、愛想もつきたわ。」


 ……え。

 えええっ!?


「……だから、この仕事、

 どうしてもモノにしないといけな

 

 でも。

 仕事じゃなくて、そんなんじゃなくて、

 ただ、静に、逢いたかった。

 逢って、謝りたかったんだよ。」


「……

 そんなこと、誰が信じるんですか。

 少なくとも、わたしは貴方を、まったく信じられません。」


「……そうね。

 静も、そうでしょ?」


 ……。


「わからない。

 調べないと、なにも。」


「……あはは。

 変わって、ない。

 調べ過ぎて、あの街にいられなくなったのに。」

 

「えっ。」


 ……。


「……

 いいわ、もう。

 

 静はね、私たちの地元の大学の理工学部にいたんだけど、

 お母さまが病気になって、介護に専念しちゃったの。」

 

 ……。


「看病の甲斐なくお亡くなりになった時には、

 就職先はどこもなくて。勿論、院にも行けなくて。

 あんなにいい論文あったのにね。」


「……

 あれは、僕のじゃないから。」


「違うわ。あれは貴方の論文よ。


 で、大学の陰謀で、非常勤の公務員に押し込まれた。

 仕事の断り方を知らなかったから、タダ同然の賃金で深夜までこき使われた。

 学生なんて、お金の価値とか、労働時間の意味とか、全然、分からないしね。」


 無知、だった。

 ただ、ただ、無知だった。


「……。」


「それでも、ある上司に気に入られて、

 密かに産業廃棄物処理場の調査を依頼された。

 その上司は、残業時間見合いの給与の半分を払ってくれたり、

 みなしの契約みたいにして、少しだけ待遇を良くしてくれた。

 

 それを信じて、現地に入って一生懸命調べたら、

 ある日、ずばっと梯子を外された。

 あの野郎の親戚が、地権者だと気づいてれば


「……もう、いいって。」


「私は、あれでこの街を出る覚悟を決めた。

 静が、変な正義感を持たなければ、私達も」


「だから、もういいって。

 

 ……若かったんだよ。

 僕も、洋子さんも。」


 正義感なんて、持つべきじゃなかった。

 人を、うかつに信用すべきじゃなかった。

 誰かが必ず見ていてくれるなんて、思うべきじゃなかった。

 

 正義など、塵に過ぎなかった。


 ……

 で、も。


「でもね。


 僕は、いまの課長、わりと信用してる。

 寺岡さんも、植村主幹も、葛原部長もね。

 もちろん、帆南さんも。」


 世界は、不誠実な人達ばかりじゃない。

 残業すれば手当は払ってもらえるし、深夜手当も休日勤務も割り増しがつく。

 そもそも、残業自体、ほとんどない。


 なのに、給料だけで、二倍以上も入ってくる。

 母さんができなかった外食にお金を蕩尽できるくらいには。


「……。」


「……

 洋子さんは、いまも、

 信用できない人達に取り囲まれてるんだね。」


「そうよっ。

 だから、静だけが

 

 ぶーっ


 え?

 

<榎です>


 ?


<緊急事態です

 晴香が、姿を消しました>


 …… 

 はぁぁぁぁぁぁっ!?!?

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