第37話


「……そんな段階はとっくに過ぎたよ。

 あの娘も、僕も、もう、引き返せない。」


 ……闇に憑りつかれたような昏い眼。

 なにか、凄く深い恨みでもあるのだろうか。

 これは、帆南さんに警備班をくっつけるとか上申できる雰囲気じゃないな。


「……ま、上手くいったところで、

 生き延びられるかは分からないけれどもね。

 本当にヤクザな話さ。」


 ……なんとなく、わかってきた。

 課長にとって、うちの会社は、目的達成の手段でしかないのかもしれない。

 上司に媚びる姿勢が薄い理由は、究極、それなのかも。

 

 でも。

 

「そのヤクザな方に、僕は救われましたよ。」


「えぇ?

 きみにまで、そんなこと言われてもね。

 僕はただ、好き勝手に生きてるだけだからさ。」


 ……よし。

 ちょっと、ガードが緩んだ。


「……おまたせしました。

 裏メニューの和牛ヒレ重でございます。」

 

 ……はは。

 絶っ対に合わないよな、これ。

 ただ、評判はいいらしいんだわ。

 

 まぁ、当然なんだけど。

 だって


「……ふふふ。

 なんだよ、これ。」

 

「ですよね。」


 繊細な内装と無関係に、めっちゃずっしり重たい。

 ブランド和牛の霜の降り切ったロース肉の脂が濃く、口に、腹にたまっていく。

 老舗焼肉店の、看板メニューの一つ。

 

「紅茶じゃ、ないよね。」


「ですね。」


 黒烏龍茶あたりだよ。


「……ははは。

 これは、やられたよ。

 ほんっと、面白いね、きみは。」


 ネタとしてはそれ以上の趣旨はないんだけどね。


「……若い頃、

 連れてきてもらったことあってね。」

 

 こっちじゃないほうですね、もちろん。

 

「あの頃に戻りたいなんて、

 死んでも思わないけどさ、旨かったよ。

 でも、その時より、ずっとこっちのほうがいいね。」


 ……うん。

 よし、ここかな。


「僕、北海道で、

 同僚帆南に、告白されました。」


 あ、

 課長が、珍しく、素で驚いた顔してる。

 知らなかったんだ、は。


「……

 返事はいい、と。

 穢れてるから、どうせだめだと。」

 

「……きみは?」


「そんなことはない、

 騙されていただけだ、と。」


「……ふぅん。

 人二千里かな?」


 ……あはは、

 これはまぁ、いいか。


「少ない情報源の中から、ですね。

 社内情報レベル1なので。」


「いまのきみだと、レベル3くらいかな?」


 ……はは。まだ3かよ。

 闇が深すぎるな、このスキル。



 「で、婚約相手に二度も裏切られたきみとしては、

  お付き合い自体に躊躇してるってとこ?」



 うっ!?

 

 ……どう、して。


「そりゃ、然るべきところ興信所に頼みますとも。

 今や重要人物だからね、きみは。」


 あぁ……。

 そういう発想に立ったこと、なかったわ……。


「やっぱりそれが原因か。なるほどね。

 それで、に返事をしてないってわけね。」


 課長は、ちょっと油っぽくなったマリアフレージュを一口すすると、

 年波をまったく無視し続ける端正な顔を、少し歪めた。


「……まぁ、それもいいのか。

 いまの彼女帆南は、ちょっと、難しい立場だからね。」

 

「それですけど。」


「ん?」


「課長は、彼女に、何を期待してたんですか?」


「はは。

 それ、聞くんだ。」


「はい。」


「七つくらいあるけど。」


「でしょうね。

 でも、そのうち三つくらいは、

 わざわざ部を跨いで呼ぶ理由にならないものでは?」

 

「……ふふふ。

 調一の妖刀、ね。」

 

 ?


「まぁ、そうだね。

 じゃ、正直ベースで言うとさ、

 彼女は、優秀だよ。とってもね。」

 

 それはもう、間違いない。

 背中を任せられる同僚の存在はめちゃくちゃありがたい。


「無実の罪、とまでは言わないけれどもさ、

 手の届くところに置いてみたいとは思ったよ。

 ただね?」

 

 ん?


「きみってさ、

 僕の見込みから、零れていくところあるよね、わりと。」

 

 ……なんか、すごい眼で見られてるんだけど。


「あはは、

 ま、いいけどさ、

 どう? 両手の花に囲まれる気分は。」


「……その思い出だけで生きていけるんじゃないかと。」


「こんな状態でまだそんなこと言ってるの?

 もう5年も前でしょ? ちょっと引きずりすぎじゃないの。」


 ……軽く言ってくれるなぁ。


「課長とは違いますから。

 百戦錬磨の床上手じゃないですし。」

 

「……なんてこと言うの。」


「僕のことはいいんですよ。」


 そんなことよりも。

 

「課長としては、この局面で、

 彼女を、どう使うんですか?」


「ん?」


 あぁ。

 これ、韜晦なのか、本気なのか。


*


(きみって、結構悪い奴だよね。)


 ……そう、なのかな。

 だって、もう、こうするしかないんじゃないかと。


 ま、情報は手に入ったな。

 こっちもだいぶ、傷がついたけど。


(婚約相手に二度も裏切られた)


 身元調査、かぁ……。

 あんなあっさり言われると、なんだか拍子抜けする。

 

 ……。


(ちょっと引きずりすぎじゃないの)


 ……

 

 いや。

 があると言えば、僕にだって。

 劣情は、永久に封じきらないと。


 そんなことはいい。

 いま、仕事中だし。

 

 で、と。

 もう一個、出張があるんだよねぇ…。

 いろいろありすぎて、忘れかけてたけど。

 課長も忘れてたら笑うけど。

 

 ……。

 

(よかったです、わたし。

 思い切って調一に移って。)


(ほんとに良かったなって。

 ありがたいですよ、先輩がいてくれて。)


 ……たった一日、

 いや、わずか数時間いないだけで、

 こうも、空白を感じるものか……。

 

(小辻静さん。

 

 わたし、

 あなたのことが、好きです。)

 

 ……あんな、綺麗な人に、ねぇ……。


 ああいう告白は、はじめてだったな。

 告白と呼べないものばかりだったから。

 

 ……あぁ、いい。

 どうせ、結ばれっこない。

 落ち込みの激しさから来る一時の気の迷いなだけ。

 

 僕の人生は、あの瞬間に終わっているのだから。

 正しい場所に戻す道筋を立てないと。

 

*


 ……


 広くなっても、ただいまを言う相手はいない。

 なんせ、はるなさんが帰れなくなってるものだから。


<ロックバンドのボーカルの方が主演なのですが

 控室から舞台にあがってこないんです

 プロデューサーが迎えに行かれたまま戻らなくて

 みんなもどうしていいかわからなくて>


 ……ほんとにあるんだなぁ、そんなことって。


<その方、お芝居に向いてないんです

 視線くれないなら独演会してほしいです

 ファン以外のお客様は5分で鼾を掻かれると思います>


 ……あはは。

 地味に毒舌だよな、はるなさんも。

 

 よくは知らないけど、

 周りにおだてられてスター性があるように見せられているだけで、

 実際には、中身がないタイプなのかもしれない。

 

 なんてのを送っちゃうと、はるなさんを煽っちゃうからやめておこう。

 被害を受けている真っただ中なんだから。


 ……


 広い、なぁ……。

 こんな広い部屋は要らないんだよなぁ。


 いや。

 はるなさんと一緒にいた昨日は、

 広さなんて、感じなかった。

 

 ひとりでいることを、深く感じてしまう。


 ……ゆっくりでも見るか。

 なにも考えないで済むから。

 

 あぁ。

 部屋、広いから、音、出せるな。

 それだけは利点か。

 

 ……ん?

 

 (リアレペ)

 

 あの娘、撃退のことを、レペって言ってたよな。

 あのマイナーなクソゲーを脅威の根性で全クリしたゆっくりの実況で

 

 ぶーっ

 

 ん?

 

 はるなさん……

 じゃ、ないな。

 

 しらたまさん、戻ったのか。

 

<ただいま戻りました>

 

 ……

 テンション、低いな。

 入社式の時みたいだ。

 

 そりゃ、そうか。

 監査部にあることないこと言われたんだろうから。

 二次被害そのものなんだけどな。

 

 あ。

 

<開拓の成果、生かしますか?>

 

 既読がついた。

 ……でも、リアクション、ないな。

 そんな気分じゃないってことか?

 

 ま、しょうがないか。

 昼のヒレステーキ重のお代、課長が持ってくれたしと思ったんだけど。

 究極、今日はカロリーメイトで済ませる手もあるか。

 

 それなら、もう出かけない訳だから、

 先にシャワー入ってしまうか。

 

 シャワーも広いんだよねぇ。風呂と別で、同じくらいのスペースがあるって。

 出張先でたまたま泊まれたホテルよかずっと広い。

 茗荷谷の10倍コスト高だわ。人が生きていく上でこんな広さはいるのかしら。

 

 ま、いまだけだから。

 水圧も強いので有難くはある。

 この建物の浄水ポンプが性能がいいせいなのか、都内なのに

 

 ぴーんぽーん

 

 ……ん?

 また0120系か? それとも投資目的不動産の案内?

 

 ぴーんぽーん

 

 ……って、

 

 え゛


 

 『おまたせしましたっ!』


 

 う、わ。

 ぜんぜん行く気なんじゃん。

 せめてRINEを返してくれれば、服、着たままだったのに。

 

 な、なんだろう、

 向こうに見えてないの分かるけど、ちょっとだけ恥ずかしいわ。

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