第6章

第33話


「静さんを、

 あなたに譲るつもりは、ありません。」


 空港内に、不可視の火花が激烈な勢いで衝突した。

 はるなさんのヘーゼルナッツの瞳からハイライトが消え、

 帆南さんを、まるではじめて存在を認知したかのように、鋭く見据えた。


 帆南さんは、まったく怯む様子はなかった。

 半歩前に出て、真正面からはるなさんの視線を受け止め、対峙する。


 はるなさんは、少し驚きながら、

 冷徹な瞳のまま、聞いたこともない低く、通る声で、

 一音一音、区切るように告げる。


「……それを決めるのは、あなたでは、ありません。

 そうですね?」


「ええ。」


 到着ロビーは、完全な無音になった。

 バックパックを抱えた外国人観光客が、

 驚いた顔で、互いに睨み合う眉目秀麗な二人を交互に眺めている。


「でした


 らっ……!?」


 は?

 

 あ、あぁ……。


「テンマ様、

 のほうは、のちほどご連絡申し上げます。」

 

 いつのまにか背中に廻り込んでいた榎さんが、

 はるなさんの口を抑えている。


 一瞬。

 はるなさんが、ヘーゼルナッツの瞳に、

 見たこともない凶悪な歪みを浮かべた。


 次の瞬間、榎さんが、はるなさんの耳元に向かってなにかをささやくと、

 はるなさんは、口を湾曲させ、顔を真っ赤にしはじめた。

 

 な、なんだ?

 ……いや。

 この機会、逃すわけには。

 

「まだお仕事中だよ、帆南さん。

 帰社報告しないと。」


「!?」


「!

 は、は、はいっ!!」


 ……ふぅ……。

 ……だいっぶんいろんな視線が来てたよな、いま。


*


「朝から社長に会ったんだって?」


 あぁ。

 絶対、わかってたクチだな。


「知ってらしたなら、教えて頂ければ。」


「あはは。いや、急に決まった話だし、

 まさか、きみと社長が支社前で偶然会って、きみを呼び止めるなんてね。

 さすがの僕も、ちょっと想定外だったよ。」


 まぁ、それはそうか。

 通常、下っ端社員が社長に会うなんてことはありえないんだから。


「怪我の功名だけど、札幌の調査はスムーズに進んだようだね。

 そっちは何よりだよ。

 

 で。

 帆南ちゃん。」


 あ。

 なんか、インテリヤクザの顔してる。


を言われるかは、のことかい?」


「……。」


「わかってるの?

 それとも、わかってて、をしたの。」

 

 ?

 どういうこと?

 課長が人前で部下を怒ってるの、はじめて見たけど。

 

 やばい。隣にいるだけなのに怖気づきそう。

 札幌のキンキンの冷気が東京のオフィスに持ち込まれてる。


「いまさらと繋がってたりしないよね。」


「!」


 は、ばつ?

 なんだ、そりゃ。


「……はは。ちょっと、言いすぎたね。

 でも、社長案件になってることは、意識しておいて欲しいな。

 きみの処遇にもかかわるから。」


「……

 は、い……」


 うわ、消え入りそうになってる。

 これ、どういうことなんだ。


*


「それで、私なの?」


「はい。」


 寺岡さんなら、なにかわかるかと。


「あはは。

 小辻君、わかってなさすぎ。もう30超えたんでしょ?」

 

 超えちゃったんだよなぁ、30歳。

 恥の多い生き方しかしてないわ。


「ほんとは、一食分だと安すぎるんだけどね。

 まぁ、こないだの鰻、美味しかったからいいけど。」


 ……はは。


「ここのカレーも美味しいわね。

 味わいが深いっていうか。」


 王道欧風ビーフカレーなんだけど、

 素材とスパイスの奥行が深くて、単調にならない。

 よく煮込まれたスジ肉の固さがアクセントになってて、

 まさに、複雑かつ上品な味わい深さ。

 

 チーズとチャツネで味を少し替えても面白いけど、

 そもそも元のカレーが飽きないんだよね。

 

 あぁ、ライスの上、スライスしたアーモンドと、

 これは、干しブドウのいいやつか。

 あー、いいな。やっぱりこれ、いいアクセントだわ。

 旨いうまい、ウマウマ。


「ふふ、ほんと美味しそうに食べるわねぇ。

 若いって羨ましいわ。」


 だから、年齢差3つくらいなんだってば。


「それでね。

 入社4年目なのに社内事情に疎すぎる小辻君に、

 社内の断層をぜんぶ話したら日が暮れそうだから、

 湯瀬さんが帆南ちゃんに言ったっていうやつだけね。」


「はい。」


「ま、ざっくり言っちゃえば、古参と外様。」


 ん?


「要するに、社内生え抜きか、他所から来たか。」


 あ、あぁ。


「調査部にいると分かりづらいと思うけど、

 営業部とか人事部は、生え抜きが多いの。


 で、経歴を見て貰えば分かると思うけど、

 うちの役員のバランスは、生え抜きと他所出身者がだいたい五分五分なの。」


 ふぅむ。


「槌井社長は当然、他所組。

 役所から天下った人だからね。」


 え、そうなんだ。


「ほんと、関心なさすぎにも程があるわ。就活生と変わらないじゃない。

 ま、小辻君らしいけど。」

 

 そうか……。

 と、いうことは。


「帆南ちゃんと小辻君は、

 さしずめロミオとジュリエットね。」


 なんで男女逆なんですか。


「ふふふ。

 帆南ちゃん、ほんと、可愛いわよね。

 それこそ就活生に交じっても分からないわ。」

 

 なんのこっちゃ。

 まぁ、それは否定しないけど。

 

「羨ましいなぁ。

 あんな顔に産まれたかったわ。ね?」


 答えづらいこと言わないでください。

 っていうか。


「そんな整った容姿で言ったら嫌味ですよ。」


「あはは。

 小辻君、わりとそういうこと真顔で言うよね。」


 ただの事実だからね。

 帆南さんやはるなさんは異常なだけで。


「で、湯瀬さんは槌井社長側。

 ま、出身から言って当然だけど。」


「出身、ですか?」


「あら。

 湯瀬さんも、君と同じように中途採用よ。

 君も相当な変わり種枠だと思うけど、湯瀬さんは、それ以上よね。」


 そうだったんだ。

 考えたこともなかったけど。


「だから、湯瀬外様さんが帆南ちゃん生え抜きに声をかける、

 っていうのは、通常、ありえないことなのよ。」


 うわぁ……。

 それができてしまうくらい、

 向こうでの帆南さんの立場が悪くなってたってことか。


「湯瀬さんって、わりと怖いのよ?」


 それはまぁ、分かる。

 インテリヤクザだから。


「ふふ。

 敵に廻さない限りは頼もしい人だけどね。」

 

 そうか。

 なるほど、な……。


 あ。

 

 じゃあ、外様組の頂点である槌井社長の前で、

 帆南さんが固まっていた理由って、それもあるのか。

 平社員が社長を見て硬直してたってだけじゃなかったと。


「で、

 槌井社長と湯瀬さんを強力に繋いでるのが、君ね。」


 は?


「分からない?

 君のあのレポート、取締役会で大爆弾だったんだから。」


 あのレポートって、基礎研の嘘データを報告したやつ?

 あれ書いたの、課長じゃん。


「社内では、今年下半期、最大のニュースね。

 あれで研究所長の常務昇格の眼は潰れたもの。」


 うわ。

 って、ことは。


「そ。

 君って結構、恨まれてるんだよ。」


 ……あららら。


「一応言っておくとね、

 営業本部長、実績だけはいいのよ。

 支社長時代、福岡支社の売上、三倍にしたからね。」

 

 ところが、その福岡支社に監査が入るかもしれないと。


「そういうこと。誰かさんのせいで、ね。

 まぁ、監査部も一枚岩じゃないけど、

 営業本部長は好かれてるわけじゃないから。」


 断層がいろいろある感じだなぁ。

 一生、調一の主任でいい気がする。


「あら、ちょっと長くなっちゃったみたいね。

 これだけであと五時間くらい説明しないとだけど、

 ま、次のお昼に期待しようかな。」


 ……はは。

 レッスン料、高いんだか安いんだか。


「あ。

 最後に、ひとつだけね。」

 

 ん?


*


 がちゃっ


「おかえりなさいっ。」


 えっ!?

 連絡、なにもなかったけど。

 

 ……。


「ただいま、はるなさん。

 また、驚かせたかったんですか?」


 表情でわかる。

 まるで、シングルエイジの子どもみたいだから。


「そうですっ!

 今日の午後、絶対的にオフにして貰いましたっ!」


 ん……

 いや、美少女の無垢そのものの笑顔にはほっこりするんだけど、さ……。


 着やせするタイプなのかな

 ふつうに、胸部が発達し……

 

 い、いかん。

 絶対的に、いかんやつ。


「ゆ、夕食は、どうされましたか?」


「……。」


 あれ、急に黙った。

 え。

 

 あ、あぁ……。

 キッチンに、焦げた物体Xが……。

 

「……役では、うまくやれてたんですけど。」


 ……はは。

 そういうこと、ね。


「その、料理人の役、一回だけでしたし。

 ホールスタッフなら上手くやれるんですけど。」


 あ、なんかわたわたと言い訳してる。


 そっか。

 ……あぁ、こんなの。


「っ!?」


「ありがとうございます。

 嬉しいですよ、すごく。」


 何年振りだろう。

 母さんがまだ健康な時以来じゃないか。


「……

 はいっ!」


 あぁ、語彙が脳から溶け去るくらい可愛いな、もう。


 ただ。

 問題は、まったく解決していない。


 この冷蔵庫には、なにも入っていない。

 札幌出張対応で、水以外をほぼカラにしておいたから。


 さて、どうしたもんかな。

 宅配はハイリスクの極みだしなぁ。

 王道は近くのスーパーに一人で買い物に行く、だけど。


「あ、あのっ。」


 ん?


「お、お買い物、一緒に行きたいです。」


 いや。

 それは、悪手だろう。

 だって。


「……

 大丈夫、ですよ。

 この材料、わたしひとりで買えました。」


 え。


「わたし、これでも女優やってますから。」


 ……はは。

 なんだろう、いまの。

 ドヤる姿が、すっごく可愛い。

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