百七話 おかえり
不自然なほどに警備の目が緩かった砦。
私たち一行は、夜の闇に紛れて牢を破り、静かに脱出した。
「カタブツな働き者だって噂しか知らなかったが、司午(しご)の旦那があんなに情に篤い男だったとはな」
「あの方のお身内は、幸せでございましょうね」
もう心配ないかと思われるほど離れた田舎道で、椿珠(ちんじゅ)さんと玉楊(ぎょくよう)さんが、玄霧(げんむ)さんの人となりを評する。
そう、そうなんだよ。
分厚い羽毛布団のように、司午家の人たちの情は厚く重く、温かいのだ。
歩きながらおしゃべりしながら、翔霏(しょうひ)が砦から無断で借りてきた地図を広げる。
「どうやらこの道、翼州(よくしゅう)に入ってそのまま神台邑(じんだいむら)に繋がるようだぞ。いくつか峠は越えることになるが」
ぱあっ、と全員の顔が一斉に明るくなった。
「まずは帰ろうぜ。みんなの墓に報告しないと」
軽螢の言葉に賛同して、私たちは翼州から角州へと続く山脈のふもとを進む。
途中、怪魔が出たりしたけれど、巌力さんのサバ折りで泡を吹いたり、翔霏の伸縮棍に殴られて泡を吹いたり、私が怒鳴って追っ払ったり、軽螢が念術の途中でおしっこしたくなって大騒ぎになった。
それでも無事に翼州に入り、さあもうすぐ神台邑の入り口だ。
「変わっちゃってるかな」
みんなの遺体を火葬して埋めた、クソ暑い夏のあの日。
翼州左軍のみなさんのお陰で、邑は綺麗に掃除して引き払うことができた。
それでも雑草が伸びたり、壊れかかっていた家屋がさらに崩れたり、野の獣が住みついて荒らしたりしているかもしれない。
片づけや整地も、邑の復興作業の大事な一歩だよね!
過去の悲しみより、未来の希望を強く胸に抱いて、私たちは。
「ああ、あの石柱、まだ残っていたか……」
翔霏が感傷的な声で、邑の入り口を主張する、かつて見慣れた石の柱を、目を細めて眺めた。
古代にこの地を管理していた翼州公さまが、邑に怪魔が入らないように円環の水濠を作り、結界を定めた。
その事績を記念して建てられた石柱に一礼し、私たちは邑の中へ。
「思ったより、荒れてねえな……?」
不思議な顔で軽螢が、邑の中を見て回る。
燃やされて半壊した家々と、なにも植えられていない田畑は、私が最後に見た神台邑の様子と、さほどの変化はない。
冬だから邑の周りに植えていた樹木の葉はすっかり落ちているけれど、本当にその程度の変化しか目につかないな。
誰かが、定期的に最低限の管理だけでもしてくれていたのだろうか?
「あれ、なにか新しく、墓地に建てられてる」
私たちが見慣れない異物に駆け寄ると、それは巨大な石碑だった。
表面に「鎮魂之碑」と大書きで彫られて、その下に小さな文字で死者を悼む詩句が続いている。
裏には「角翼(かくよく)少年義兵団、寄」の文字が。
「ばっかやろう、あいつら、貧乏なくせにこんな立派なモン建てやがって……」
石碑に縋りつくように体を預け、軽螢が泣き崩れた。
逃げて生き残ったり、避難の中で故郷を追われたりして軽螢たちと一緒に流浪していた少年少女たち。
そのうちの大部分は玄霧(げんむ)さんのご厚意により、首都の河旭(かきょく)で住み込みの工事や雑務に励んでいる。
彼らがなけなしの稼ぎの中から少しずつお金を貯めて、この石碑を寄贈してくれたんだ。
さすがの翔霏もぐううと唸って涙に濡れ、その石碑を何度も何度も、愛おしむように撫でた。
「お花を、お供えしてもよろしいでしょうか」
玉楊さんが、色紙で折った造花を石碑に手向ける。
冬の今、野山で花を手に入れるのは難しいので、途中の町で買った色紙で器用に折ってくれたのだ。
椿珠さんと巌力さんも、玉楊さんに比べれば格段に不器用ながら、一生懸命に紙の花を折り、石碑に添えてくれた。
あの忌まわしき初夏の日に散った、神台邑の多くの魂たちよ。
せめて遥か遠くにあるという、安らぎの虚空に旅立てますように。
私たちは長い時間をかけて、声も言葉もなく、めいめいに祈る。
激しい旅の果てに、新しい友を、仲間を連れて。
ようやく、みんなのお墓詣りを行うことができたのだった。
「さて、なにから手を付けましょうかねえ」
お祈りと供養を終えた私たちは、それぞれ気の向くまま邑の中を散策、検分する。
私はまず、石数(せきすう)くんとの思い出の詰まった石の倉を入念にチェック。
いずれ石やレンガを積み直して綺麗にしよう。
次に廃墟となった中央会堂の中を窺う。
長老衆が邑の方針を会議したり、めでたいことがあったときに宴会に使う広間である。
「なんだこりゃ。石版?」
会堂の入り口奥に、文字の刻まれた石の板が置かれているのを発見。
書いてある内容はこうだ。
我既除葛葉
然未耕田畑
汝何実此地
豆芽若生姜
宝璽置中匣
どこかで聞いたような、思わせぶりな単語がちらちらと見受けられますねえ。
後から来た翔霏が私の肩越しに石版の内容を読み上げる。
「我、すでに葛の葉を除く。しかれどもいまだ田畑を耕さず。なんじ、この地になにをか実らせん。豆の芽か、もしくは生姜(しょうきょう)であるか。宝璽(ほうじ)を匣(はこ)の中に置く」
ざっくり言えば「邑が荒れないように整備だけはしておいたので、好きに作物を植えなさい」という意味だな。
追伸のように「箱の中にお宝を残して行った」とある。
「なんだなんだ、宝探しか。箱ってのはどれだ」
「椿珠、あなたの分け前なんてありませんよ。よそさまの邑なんですから」
目ざとく珍品の気配を嗅ぎ分けた椿珠さんが、玉楊さんの手を握り導きながらやって来る。
確かにメッセージだけなら、宝探しの謎かけみたいだけれど、そう難しい話でもないと私は思った。
「この会堂の祭壇に、確か石の箱があったはずなんですよね。でもお宝を入れてあるなんて堂々と書き置きしたら、もう誰かに盗まれちゃってるんじゃないかな」
果たして私が確認すると、会堂の中央奥に備え付けられた祭壇に、石のデカい箱が横たわっている。
しかしその箱は、ゴツい鎖で厳重に縛られ、中身に手が付けられないようになっていた。
「なんか、呪(まじな)いがかけてあるみたいだぜ、この鎖。タガネでブッ叩いても切れないだろうな」
軽螢が封印にかけられている不思議な力を感じ取り、言った。
鎖の間にはこれまた頑丈そうな重々しい錠前が取り付けられており、この錠前を解除しない限り、鎖を外して中身を取り出すことはできないようだ。
椿珠さんは鎖と錠前を念入りに観察し、眉をひそめる。
「この錠前、鍵ではなく仕掛けを解かないと開けられないようになってるな。ここに回転式のつまみが二つあるだろう」
言われて私も詳しく見てみる。
いかつい鋼鉄製の錠前には、確かにダイヤルロックのつまみのような機構が二つ、並んでいた。
目盛りが刻んであるので、ダイヤルを正しく回せば封印は解除されると思う。
真ん中にある小さなボタンはどうやらリセットボタンで、押せば最初から試行しなおせるようだ。
私はもっとも簡単な推論をまず提示する。
「右の目盛りと左の目盛りを、適切な位置に合わせば開くんでしょうか」
「それだと、どんな馬鹿でも総当たりで簡単に開けられることになる。この手の仕掛け錠は『右をいくつ、左をいくつ回せ』みたいな開け方になってることが多いな。それなら上限回数がわからないから、あてずっぽうで開けるのは無理だ」
椿珠さんに言われて、なるほどと私は納得する。
二ケタしかないナンバーロックの要領だと、目盛りの数同士を掛け算した数しか、パターンが存在しないからね。
右が十、左が十なら答えは百通りに限られるって理屈だ。
ただし、スタートの位置から左右それぞれの目盛りをいくつ動かせ、と言う形式なら、答えの数は実質的に無限大である。
他に何かヒントがないかと探していたら、錠前の裏に文字が刻まれているのがわかった。
「甲の二乗は、甲を二倍して八百九十九を足した数に等しい」
私が読み上げると、げっとした顔で椿珠さんが反応した。
「なんだ、算術の問題か。恒教(こうきょう)や泰学(たいがく)と睨めっこしながら、掛け算や累乗を勉強したガキの頃を思い出して吐き気がする」
「商人なのに、細かい数学は苦手なんですね」
私の冷静なコメントに玉楊さんが笑った。
「むしろ、そうだから椿珠は商売を本業にしなかったの。他の兄さまに、もっと勉強しろとバカにされ怒られ続けて、嫌になってしまったのね。いつまでも子どもみたいでしょう?」
「おい、いい加減なことを言うな。俺は細かい数がわからなくても、勘所で勝負するたちだからいいんだ」
兄妹の微笑ましいやりとりにほっこりして、私は考えるまでもなく回答を述べる。
甲はいわゆるエックスで、これは二次方程式の初歩的問題だ。
「甲は三十一と、マイナス、って言っても伝わらないか。負の二十九です。正負に分かれてるということは、つまみを回す方向が左右で違うのかな」
一瞬で答えた私に、巌力さんが驚く。
「こういった算術の問題は、複雑な計算を長々と書き連ねて答えを出すような代物ではござらぬか。なぜ式を書きもせず長く考えもせずに麗女史はわかるのでござる」
なぜと言われても、それが受験戦士と言うものだからです、としか言いようがないのだけれど。
一応の解法手順を私は説明する。
「ええとですね。つまみを目盛りの数だけ回せという問題なので、答えが分数や少数になることはまずないと思いました。それで、八百九十九は素数同士の積で、三十の二乗に近い双子素数の二十九と三十一が思い浮かんだので、それを式に当てはめたら上手くハマった、という感じですね」
すべてが整数で片付く二次方程式の計算なら、解の公式を使うまでもなく、899を因数分解すれば事足りる。
素数同士の積は受験勉強をしているとよく目にするので、丸暗記していなかったとしてもなんとなく見当はつくのだ。
「俺がバカだからかなァ、麗央那がなにを言ってるのか、さっぱりわからねよ」
「メエ……」
唖然とする軽螢とヤギくんを尻目に、私は出た答え通りに左右のダイヤルを回す。
今になって思うけれど、全員で力を合わせて石の箱を高く持ち上げ、地面に落として割ってしまえば中身は取り出せたのでは。
鎖に魔法がかけられていたとしても、石の箱はそうではないだろうし。
巌力さんがいるので、不可能じゃないと思うんだよな。
ま、神台邑の遺物に対して、そんな乱暴なことはしないけれどね。
「開いたー!」
ガチャリ、と錠前の機構が音を立て、鎖の結びが解かれた。
重い石の蓋を、巌力さんが静かに持ち上げ横にずらし、中身をみんなで確認する。
「これは、琵琶の弦ですね」
玉楊さんが手に取った細いひも状のものは、絹糸を縒り合わせて作られた、美しく滑らかな弦。
「泰学の注釈書がありますな……」
巌力さんが、ちょうど勉強し直していると話していた、泰学に関する参考書を物欲しそうに眺める。
「なんだこりゃ、付け髭か?」
ふさふさとしたおもちゃのようなイミテーションの髭を口に当て、椿珠さんが首をひねる。
「……この玉、なんか変な感じがするな。冷たいような、あったかいような」
薄黄色に、まさにホタルのようにぼんやりと輝く小さな水晶玉が、軽螢は気になるようだった。
「粗末な木札だな。高山(こうざん)、大海寺(だいかいじ)……? 蹄州(ていしゅう)にあるという、有名な沸(ふつ)の寺か」
翔霏が古びた木片に書かれている、なにやら有名なお寺の名前を読み上げた。
そして私は。
箱の一番下に置かれていた、八本の鉄の串を、恐る恐る、手に持ち取り出す。
「あのクソモヤシ軍師、私にまだ戦えってか」
精巧に鋭く作られた鉄の串には、縦の中央に溝が切ってある。
毒薬をペースト状にして付着させれば、刺した相手への毒の効果が絶大無比になる構造だった。
そう、石版の宝探しメッセージから、いきなりの二次方程式を突き付け、箱の中に多種多様な物品を用意したのは、他でもない。
尾州が生んだ麒麟の子にして魔人とも呼ばれる首狩り軍師、除葛(じょかつ)姜(きょう)、その人である。
あいつは私たちが旅から帰って神台邑に立ち寄り、この箱を開けるという確信のもと、一人一人にふさわしいプレゼントを用意してくれたわけだ。
混乱の中で愛用の琵琶を失った玉楊さんには、最上級の弦を。
後宮にいた頃から一念発起し勉強をし直して、少しでも教養を深めたいと思っていた巌力さんには泰学の注釈書を。
女装は得意でも髭が薄くて厳つい男性に化けるのは苦手な椿珠さんに、立派な付け髭を。
呪術の素養があるけれど修業が足りない軽螢には、なにやら神秘の力を感じさせる宝玉を。
寺に関する木札は良くわからないけれど、翔霏がその大海寺というところに行けば、なにかしらの薫陶や悟りが得られるのかもしれない。
そして、覇聖鳳(はせお)との戦いで愛用の毒串を使い果たした私に、新たな鋼鉄の串を、八本。
全部、お見通しと言うのがマジで恐ろしいけれど。
全部をお見通しできるのは、この広い昂国(こうこく)の中に、姜さんの他に存在するはずがない。
「メェ……」
なにもお宝があたらなかったヤギくんが、寂しそうに鳴く。
しかし、軽螢が会堂の外に目をやって。
「一番のお宝は、お前のもんだよ」
優しくヤギの背と頭を撫でて、涙ぐんで言った。
外から、なにかの音と声ががけたたましく聞こえてくる。
「メエ~~~~!! メエ~~~~~ッ!!」
「ヴァァァァッ! ヴアアア~~!!」
「モアァ~~~~! モァ~~~~!!」
「ゴオオオオオォォォト!!」
邑の周囲の林から、大きな喚声と共にヤギの群れが走り迫って来た。
ああ、この邑が焼かれて滅びても。
逃げて散り散りになっていたヤギたちは、逞しく生きていたんだね。
「メェッ! メェッ! メェェ~~~~~ッ!!」
ヤギくんが、鳴き叫びながら仲間たちのもとへ駆けて行く。
その中には、あの後で生まれたらしき小さい小さい子ヤギもいる。
ひょっとしたら、ヤギくんの子かもしれないね。
やることやってたのかよあいつ、爆発しろや。
私たちも外に出て、再会を果たし歓喜の大合唱を奏でるヤギたちを見る。
すうう、と大きく息を吸い。
私は、叫んだ。
ヤギに混ざって、両の眼から滝のような涙を流し、絶叫した。
「神台邑、たっだいまあああああああああああああ~~~~~~~!!」
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