百四話 あしでまとい

「麗央那(れおな)、やったんだな」


 気付けば翔霏(しょうひ)が横に来ていた。

 涙にべしゃべしゃに濡らしたままの顔を上げると、寒そうに自分の体を腕に抱える軽螢(けいけい)と、脇腹の辺りを痛そうに抑えている椿珠(ちんじゅ)さんもいた。


「メェ、メエ」


 ヤギは相変わらず、タフに鳴いている。


「そんなに泣いてたら、顔が凍るぜ」


 笑ってそう言ってくれた軽螢のおかげで、私は、自分を取り戻すことができた。

 果たすべき応報を、決着をつけるべき戦いを、終えたのだという自覚がじわじわと湧き上がって来た。

 翔霏と軽螢に向き合い、心の中を打ち明ける。


「私、最後まで覇聖鳳(はせお)に勝てなかった。あいつは最後の最後まで、強くて、余裕たっぷりで、誇らしげで……私は、あいつが動かなくなるまで、動かなくなってもまだ、あいつのことが、怖いんだ。また平気な顔で起き上がって来て、無茶苦茶をしでかすんじゃないかって……」


 怯えた挫け虫の私は、もうどこにもいないと思っていたのに。

 強い心で、ここまで戦い、歩んできたはずだったのに。

 私は覇聖鳳にも、私自身の弱い心にも、勝ち切ることができなかった。

 そんな私を、翔霏がいつものように抱き締め、まるでお母さんのように優しく言った。


「弱くても強くても良いんだ。麗央那は、麗央那なんだから、それでいいんだ。それだけでいいんだ」

「うん、うん……」


 私の懊悩がどうであれ、覇聖鳳は斃れ、もう起き上がることはない。 

 今は泣いている場合じゃないのだ。

 覇聖鳳を殺し、万々歳、ハッピーエンド、大団円のスタッフロールから五十年後、孫たちに囲まれたエピローグに。

 なんて都合良く物事は運ばないし、タイムスリップもできない。

 この足で、生きて、帰らなければ。

 私たちの帰りを待ってくれている人たちに、また笑顔を見せなければ。

 翔霏と軽螢と私、三人が肩を寄せ合ってお互いの肩を抱き、背中を叩き合っていると。


「あぶねえっ」


 ドムッ、っと椿珠さんが突然、私たちに体当たりをかました。

 なんだ、なにがあったんだ、と首を振って私が見た先には。


「……よくも、頭領を!」


 雪中から身を起こし、私たちに向かってなにかを投げようとする覇王鳳の近衛兵、迦楼摩(かるま)だった。


「黙って死んでろ!」


 翔霏がすかさず反応し、手に持っていた棍を迦楼摩めがけて、槍投げの要領で放る。

 迦楼摩がなにかを投げたのと、ほぼ同時だった。


「ぐっぶぅ!!」


 唸りを上げてまっすぐ飛んで行った翔霏の棍は、正確に迦楼摩の喉骨を打ち砕く。

 迦楼摩がその場にドサリと倒れるのと同時に。


「……やられた」


 腹部に小剣を刺された椿珠さんが、弱弱しく呟いた。

 同時に投げ放たれた武器が、椿珠さんに届いてしまったのだ。

 ずむりと雪の上に突っ伏した椿珠さんを、真っ先に介抱したのは軽螢だった。


「傷は浅えよ! 助かるからな!」


 軽螢はそう言いながら、手際よく椿珠さんの服をはだけさせ、傷口を確認する。

 厚い冬服が防具の役目を果たしてくれたおかげで、骨や内臓が見えるほど深い傷口ではなかった。

 

「軽螢、薬精がある。使え」

「メェッ!」


 ヤギの首に下げられていた道具袋の中から、消毒用の蒸留酒を翔霏が取り出す。

 うわ、懐かしいなあ。

 翔霏と最初に会ったとき、私が知らずに飲んじゃったやつだ。

 私も外套の下に重ね着していた服を噛んでビリリと引き裂き、血止めの布巾や包帯を用意する。

 テキパキと処置に動く私たちを見て、椿珠さんは大声にならない叫びを上げた。


「ば、ばっかやろう。怪我人の俺なんか置いて行け。もし吹雪いてきたら真っ白な雪の中に取り残されて、全員あの世行きだぞ!」


 ホワイトアウトというやつだな。

 雪崩に巻き込まれ押し流されて、道から外れてしまった私たち。

 これから夕暮れを過ぎて暗くなり、横殴りの吹雪による視界不良を食らったら、まず生きて帰ることはできない。

 椿珠さんの心配をよそに、軽螢が蒸留酒で手と傷口を洗いながら言う。


「皮膚を縫うからな! 痛いし雪を押し当てるから冷たいけど文句言うなよ!」

「あああ、酒を無駄に使うんじゃねえ。お前たちが体を温めるのに飲みゃあいいんだ。死にぞこないの俺の手当てなんかするな!」


 椿珠さんの声は、次第に嗚咽に変わっていった。

 翔霏が椿珠さんの体を抑え、軽螢がちく、ちく、と慎重に、意外なほど器用に、傷口の皮膚を縫い合わせて行く。

 痛みからではない涙に両目を濡らしながら、椿珠さんが懇願するように私たちに言った。


「頼む、頼むからもう、捨てて先に行ってくれ。俺を足手まといにしないでくれ。能無しの役立たずのまま、お前たちの足を引っ張って死にたくないんだ。お願いだ……」


 子どものように泣きじゃくりながら、椿珠さんが後悔を口にする。

 

「なにもできず、なにものでもなかった俺がようやく、自分の役目を見つけられたんだ。玉楊(ぎょくよう)を救ってくれたお前たちを生かす、そのために俺は死ぬって、誇らしい気持ちで思えたんだ。こんな、こんな無様な重荷になって、お前たちを巻き添えに死にたくない……」

「うるせえ! ごちゃごちゃ言うな!」


 椿珠さんの泣き言に怒りの叫びを上げたのは、翔霏でも私でもなく、軽螢だった。

 傷口を縫合し、念入りに更に薬酒で洗い、雪の塊を押し当てて止血に励む軽螢。

 必死の行いを否定するなと言わんばかりに、額に血管を浮かび上がらせ、怒鳴った。

 軽螢が怒ったところなんて私、はじめて見たよ。


「生きてりゃ誰だって、いつか誰かの足手まといになるんだよ! それが早いか遅いか、長いか短いかの違いでしかねえんだ! 椿珠兄ちゃんは目の見えないべっぴんの妹さんを、足手まといだからって捨てて行ったりするンか!?」


 言われて、椿珠さんはハッとした表情を見せた。


「そんな、そんなことをするわけねえだろう。玉楊は、俺のかけがえのない家族で、宝物で……例えあいつがこの先どうなっちまおうと、俺は……」

「わかってんじゃねえか! 役に立つとか、足を引っ張るとか、そんなこと関係ねえンだ! 椿珠兄ちゃんは俺たちの仲間で、友だちで、家族みてえなもンだろ! 俺たちに家族を見捨てて先に行けって言うのかよ!!」


 軽螢の吼えるさまに、私も翔霏も思わず、微笑してしまった。

 そうだよね。

 同じ目的のために、同じ道を歩んだんだ。

 椿珠さんが仲間でなかったら、いったいなんだと言うのだろう。

 クソほど冷たいだろうに、軽螢は雪の塊を素手の掌に持ち、必死に傷口を押さえ続ける。

 へえ、雪は血止めに効果的なんだあ。

 確かに温度が低ければ血管は縮むからね。

 ツボ押し名人であった雷来(らいらい)おじいちゃんの孫なだけあって、医療衛生関係に軽螢は強いのかも。


「ここで椿珠兄ちゃんを見捨てたら、俺たちはどんな顔してデカい宦官さんやべっぴんの妹さんに会えばいいんだよ!? なんて言い訳すればいいんだよ!? 怪我をしたから雪の野っぱらに捨てて来ました、なんて、俺の口から言わせるつもりか!? 勘弁してくれよなあ!?」

「お前、結局は自分が良い顔したいだけか」


 翔霏の突っ込みに、こらえきれず私はブブブと噴き出して、悟られないように雪の中に顔を突っ込んだ。

 でも、軽螢らしいな。

 あなたは足手まといなんかじゃない、とは、言わないのだ。

 明確にこの場この状況で、椿珠さんが私たちの足手まといであることを認めて。

 その上で、足手まといでもいいんだ、人の価値や絆は有益さではないんだ、と言っているのだ。

 傷口を包むガーゼと包帯を、自分の衣服をやりくりして作りながら、私も言葉を添える。


「私、なにもできない迷子の状況で、翔霏と軽螢に助けられて神台邑(じんだいむら)のお世話になってたんです。ハッキリ言って役立たずの足手まといだったと思います。でも、邑のみんなは優しくしてくれたんですよ」


 神台邑ってのは、そういうところなんだよ。

 そんなところで生まれて育った軽螢が、どんな青年になるかは、言わずとも知れていることだ。


「お前は、賢いし仕事もできるし、根性もあるだろう。俺は、なにもないんだ。二十年そこらの人生で、なにひとつ、まともにできやしなかった。お前らを守って盾になって死ねたなら、巌力(がんりき)も玉楊も、きっと俺を褒めてくれて、誇らしく想ってくれただろうに……」


 ぐぐう、と泣きながら語る椿珠さん。

 わかる、わかるよ。

 誰かの役に立って、必要とされて、役目を与えられて、周りの人に喜ばれる。

 それはとても幸せなことだと、私も思っていたからね。

 だけれど、それでも。

 私は自分の経験、経歴から、こう言わざるを得ないのだ。


「そもそも覇聖鳳を殺しに行くこと自体、誰からも望まれていない、なんの役にも立たないことでしたからね。むしろ私たちは恨みを買うし、青牙部(せいがぶ)は混乱の状況に陥って、誰も得をしないでしょう」


 私たちの旅は、道理でも損得でもなかった。

 心の中の炎が消えないまま、ここまで来られた唯一の理由、それは。


「でも私たちは、やりたいことをやったんです。今、私たちは椿珠さんを助けたい。その気持ちを否定することは、今までの私たちの闘いを否定することになります。私たちを否定する権利も資格も、椿珠さんにはありません」


 自由に。

 やりたいことを、やりたいようにやる。

 誰の意見も邪魔も、知ったことじゃないんだ。

 眼を腕で抑えて、ううっと泣き嘆く椿珠さんが漏らす。


「生きて戻れたら、玉楊に、お前たちのような自由を、味合わせて、楽しませてやってくれ。世界は広くて面白いんだ、自分が思うように、好きなことができるんだってことを、玉楊に教えてやってくれ。音楽だけじゃなく、芝居小屋なんかも……」


 言われなくても分かってるさ。

 みんなで玉楊さんとお友だちになって、これから愉快に遊び倒すんだってことは、既定路線なのだ。

 ちょうど翔霏の親御さんが、翼州(よくしゅう)で演劇の仕事をしているはずだし。

 私は椿珠さんの手を握りながら、努めて明るい声で言う。


「それは、椿珠さんも一緒にすることですよ。私たちだけに押しつけないでください。まだまだ楽隠居なんてさせませんからね」


 正直、この雪原で私たちは立ち往生して、死ぬかもしれない。

 きれいごとをいくら並べたとしても、現実は無情である。

 けれど、玉楊さんも助けて、覇聖鳳にトドメも刺せた。

 横には苦楽を共にした、愛すべき友がいる。

 完璧で、これ以上ない終わりかもしれないぞ。

 そう思っていると。


「馬のいななきだ。ある程度の数がいるな」


 ふと、椿珠さんの体が暴れないように抑えていた翔霏が、どこか遠くを気にするように、報告してくれる。


「道が雪崩で塞がったので立ち往生しているようだが、いずれここまで来るだろう」


 相手の正体はわからない。

 私は想定できる範囲で状況を予測する。


「覇聖鳳を助けるために来た第二陣だったら、私たちはお手上げだね」


 積もるにいいだけ積もった雪に足を取られている以上、弓矢を射かけられたなら私たちはなすすべなく、全滅である。

 しかし状況は私の想定を超えていたようだ。

 山の一つ二つは楽に超えて来そうなデカい声が、私たちのもとに届いた。


「覇聖鳳おおおぉぉぉーーーーッ! 生きているなら返事をしろーーーーーッ! 俺との勝負が残っているぞーーーーーーッ!!」


 戌族(じゅつぞく)は白髪部(はくはつぶ)と青牙部の境界を制圧統治しているはずの、斗羅畏(とらい)さん。

 阿突羅(あつら)大統の孫である彼の、炎のように熱い叫び声が、峠の間にこだました。

 

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