百二話 白き地に広がる真紅
覇聖鳳(はせお)たち戌族(じゅつぞく)青牙部(せいがぶ)の精兵が迫り来ている。
そんな、私たちにとって最も大事なこのタイミングで。
『昨日は食わなかった。一昨日も食わなかった。お前に言われたあの日から、人を食う欲を耐えてこの日まで過ごした。今日、お前たちは死ぬ。やっとお前たちの肉を食らえる』
林の奥から私たちを見つめて、舌なめずりをしている豹の怪魔。
体毛が斑に禿げている、不吉の象徴とも言える異形の獣に、私たちは死の宣告を受けていた。
「夜中に笛なんか吹いたせいで、おかしな物の怪が寄って来ちまったな」
椿珠さんが忌々しげに漏らした。
ピューと笛を吹いたらパンサーが来ました。
字面だけ見ると、とても楽しげですね、ハイ。
そんなバカなことを考えないとやってられないくらい、私の気分も最悪になり、つい要らないことを叫ぶ。
「後でね、ってあのとき納得してくれたじゃん! 大人しく待っててくれませんか!?」
『くくく、待っている、今までさんざん待ってやった。ようやくお前たちの、若く、強く、賢く、美しい肉と魂を喰らえるのだ。瑞々しい肌が腐り落ちる前に喰らわねば』
心底楽しそうに、豹の怪魔はごくりと喉を鳴らした。
このクソ忙しいときに、余計なトラブルを増やしやがって!
ムカついて血管が切れそうになりながら、私は人語を操る怪豹に食って掛かる。
「そもそも私たちだけあんたに体をくれてやるってのが不公平なんだよ! 私はあんたの謎かけにも答えてやったんだぞ!? 少しは見返りを寄越せや!!」
キレ倒す私の言い分に、怪豹はふしゅると白い息を吐き。
『私になにができる。醜く老いて朽ちて行き、頭の中でも人と獣の境が曖昧になったこの哀れな私が、お前たちになにを与えられると言うのだ』
どこか寂しげに、そう言うのだった。
私は大声でそれに答える。
「私からもあなたに謎かけをする!」
いや、私の言葉は答えではなく問いかけだな。
「謎にも答えた! 体を与える約束もした! それなのに、なにひとつこちらには与えず、恩も返さない! 心を失った外道の怪魔はいったいだれだ?」
私の質問に、怪豹は少しの間、沈黙し。
『それは私。お前たちから奪うだけで、道から外れてなお生きさらばえている、醜く浅ましい私自身だ』
泣きそうな声でそう回答した。
やはり、最初に会ったときに、私が思ったとおりだった。
彼は魔の性質と人の心の間で、揺れ動いているのだ。
そこに付け込むように、さらに私は問いかけを重ねる。
「なら、青い牙持つ山犬の群れと、岩の間に住む神秘の豹。強いのは、誇り高く野を統べるのはどっちだ!?」
二つ目の私の問いに、豹の怪魔は慟哭めいた唸り声をひそめて。
『知らない、わからない。私のあやふやな頭では、なにがどうなるか見通せない。お前の問いに、答えられない』
戸惑うような口調で、そう回答した。
私は彼に畳みかける。
この場での対応を一つ間違えれば、みんな死ぬけれど。
自信を持って、持ち前のデカい声で叫ぶのだ。
短い人生の中で、私が少ないながらも得ることのできた、その真理を。
「試してみればわかるでしょ! 考えてわからなくても、動けば答えは出るじゃん! 行動しないと、なにも得られないんだよ!!」
どんなに簡単な問題であっても、行動しなければ、絶対に結果はわからない。
けれど動きさえすれば、良きにしろ悪しきにしろ、結果は必ずわかるのだ。
発破をかけられて、林に伏せていた豹の怪魔は力強くその体を起こした。
『おお、お前の言う通りだ。わからぬのなら、試せばいいな。血気に逸った山戌(さんじゅつ)が、大勢こちらに向かっている。お前の口車に乗って、答えを探すのも一興だ』
ガオオオオオオ、と地が震えるほどの咆哮を一つ上げ。
私の耳にも届いて来た、馬の声と脚音へ向かい、豹の怪魔は猛然と飛び出して行った。
「行こう、みんな!」
私は三人に声をかけて、怪豹の後を追い、走る。
上手く豹の怪魔を青牙部の兵にけしかけられたけれど。
正直、上手く行き過ぎてしまった。
予想外の逆襲を受けた覇聖鳳(はせお)は、怪魔に襲われ食われて行く仲間を盾に、逃げ延びるかもしれない。
絶対に逃がしてたまるものか。
ここで、殺す。
殺し切る。
今日この場で覇聖鳳にトドメを刺さないと、私は。
これから先の日々、ずっと自分を許せないまま、生きることになってしまうのだ!
私たちの向かう先で、青牙部の男たちが豹の怪魔を目にし、恐慌をきたして叫び声を上げていた。
「な、なんだこいつは!? どっから出てきた!?」
「か、カシラ! 矢が効かねえ! 弾かれる!」
「ブヒッ!? ヒヒィィィィン!!」
豹の怪魔が覇聖鳳の部下たちの列に突っ込んだ。
強靭な爪牙で一瞬の間に前衛の兵と、乗っていた馬の肉を、まな板の上の豆腐のように切り裂き、バラバラにした。
馬から転げ落ちた男たちも、果敢に怪豹に斬りかかっていくけれど、刀も槍もカキィンと弾かれる。
「い、岩を殴ってるみてえだ! どうなってんだ!」
「頼む頭領、どうにかしてくれ! 俺たちじゃ埒が明かねえよ!」
気になることを言ってる兵がいるな。
覇聖鳳を守って逃がすのではなく、覇聖鳳になにかを期待している?
「あぁ? 結界かなんかかよ。面倒臭えなあ、ったく」
兵たちに囲まれた中ほどから、覇聖鳳が姿を現した。
ぬるりと、なんの気負いもない、いつもの憎たらしい顔で。
散歩に出るように歩み出た。
逃げる様子も見せずに、豹の怪魔に向き合って、新調したらしきピカピカに光る大刀を右手に構える。
前に使ってた刀は、翔霏(しょうひ)に折られたからね。
それよりも気になることが、一つ。
「覇聖鳳の、左手……」
ヤギにまたがった軽螢(けいけい)が、ぽつりと言う。
覇聖鳳の左腕。
詳しく言えば肘から先がなくなっていて、帯が巻かれていた。
私が。
私の刺した毒串が、覇聖鳳の左手を腐らせたのか。
いや、そうではないのかもしれない。
覇聖鳳は毒が回ることを予期して、あの後すぐに、自分の左腕を切り落としたのだ。
温泉に行っていたのは、その療養のためだったんだな。
自分の前に平然とした顔で立つ覇聖鳳を見て、怪豹がハァーと湿った息を吐いた。
『痩せた山犬の割には美味そうだ。命と気の熱で血が煮えたぎっているのがわかるぞ。お前は私の舌を慰められるだろうか?』
ぶわっ! と飛びかかった怪豹に覇聖鳳は微塵もたじろぐことをせず。
「気の毒だが俺サマは結界だのなんだの、関わりがないタチでな」
真正面から一足飛びに、大刀の突きを怪豹の喉めがけて放った。
ゴジュリ、と肉と骨を裂く嫌な音が聞こえ。
『お……ごぅ……』
正確に喉元の正中線を大刀で貫かれた豹の怪魔は、ビクンビクンと体を震わせ、地に倒れた。
ぐりっ、と刀身を捻らせながら怪魔の体から引き抜き、覇聖鳳が大量の返り血を浴びる。
覇聖鳳には、人や怪魔が特殊な力で設けた結界が、効かない?
だから三重四重の結界で守られる河旭(かきょく)の皇城にもあんなに簡単に侵入できたのか!
計算外に次ぐ計算外に、私はギリッと奥歯を噛みしめる。
人生、上手く行くことが本当に少ないな。
『人を食うことを耐えたまま、飢えと誇りのうちに死ぬることができるのか……これも、お前たちと会った縁からか……』
どこか満足したように、豹の怪魔はこと切れた。
余裕があれば、あなたの死にも私は悼みたいところだけれど。
今は、まったくそれどころじゃない!
「いきなり出て来て、わけもわからねえうちに殺されてちゃ世話ねえな。どうして怪魔が喋るんだ?」
覇聖鳳が大刀を水平に構え直す。
周りの兵が体勢を立て直し、弓に矢をつがえる。
「流石に、巌力のようには行かないだろうが」
笑って、椿珠さんが私たちの前に大の字に手を広げ、盾となるように立った。
道の先では、迦楼摩(かるま)と他十人ほどが睨むように、弓矢の狙いを定めていた。
そのうち何人かは、複数の矢を同時に指に持ち放つことができるらしい。
まるでショットガンだな。
覇聖鳳がここぞというときのために傍に置いて連れて来た、まさに選び抜かれた精鋭らしいお手並みだよ、まったく。
一斉に射かけられては、いくら翔霏でもすべてを捌くことは、できない。
軽螢も手を広げて、椿珠さんと並び立つ。
「翔霏、あとは任せたぜェ。俺の武勇伝を昂国(こうこく)じゅうに広めて、芝居の演目にしてくれよな」
覇聖鳳たちと私たちの間、およそ二十歩。
私も翔霏の前に立ち。
愛すべき最高の親友に、今、一番、届けたい言葉を。
「翔霏、今までありがとう。もう私たちを守らなくていいから。私が、翔霏を守るから」
そう言った私の背後で、翔霏が頷くのがわかった。
一言でも喋ってしまえば、涙をこらえきれないのだということも。
最初の矢の雨さえどうにかできれば。
私たちが盾となり、翔霏が同時に飛びだせば。
片手の覇聖鳳ごとき、いくら仲間に囲まれていようと、一撃だ。
うちの、神台邑(じんだいむら)の、昂国自慢の翔霏を、甘く見るなよ。
私たちと覇聖鳳たちは、まるで銃口をお互いの眉間に突き付け合っているガンマンのように、静寂の中で向かい合う。
すう、と冷たい空気を肺にいっぱい吸い込んで。
私は叫んだ。
「覇聖鳳おおおおおおおおおッ!!」
叫ぶことしかできないちんちくりんが。
そのたった一つの取り柄を発揮して、山間に大声を響かせた。
「これで、終わりだああああああああああッッッ!!」
その声を合図にしたように、眼前の兵が一斉に矢を放つ。
正確に私たちめがけて飛んでくる十数本の矢。
まるでスローモーションのようにゆっくりだ。
二、三本、喰らったって、倒れたりしてやるもんか。
気合いで立ち続けて、目を見開いて。
翔霏の棍に脳髄をブチ砕かれる覇聖鳳の最期を、見届けてやるんだ。
私たち以外、すべてが真っ白な世界で、そう思っていたら。
「麗央那!!」
翔霏のとっさの叫び声と、ほぼときを同じくして、急に体が横方向に猛烈な勢いで吹き飛ばされ。
私の視界も、あらゆる音もなにもかも、薄明の中に消失した。
頭を翔霏に抱きかかえられている感触だけが、亡失の中で残った。
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