百一話 粉雪
南西へ逃げる私たちを追って、覇聖鳳(はせお)が一本しかない道をどんどんと近づいてくる。
まだ私の耳にはそのギャロップが聞こえない。
けれど翔霏(しょうひ)はおおよその見当がついているようで。
「目の前のあの山に太陽の下っちょがかかる頃には、追い付かれるだろうな」
と、数字ではない尺度で予測した。
昼前から騒ぎを起こし、正午をまたいで山間を逃げていた私たち。
有り得ない一日を過ごす私たちの頭上で、太陽はいつも通りに規則正しく日課の散歩に勤しんでいる。
冬の早い夕方が訪れるその手前で、私たちは覇聖鳳に補足される。
相変わらずの汚い口調で、怒れる間者さんがまくしたてる。
「ババアがものの役に立たないんなら、あんたらの首が繋がったまま境界まで逃がすのは難しいよ!? あたしだって自分の身は可愛いからね、あんたらを囮にしてさっさとずらかりたいくらいだ!」
それは困るので、私は彼女の気が変わってくれると期待しながら、屁のような理屈を口にする。
「どのみち、覇聖鳳たちの方が断然足が速いし、弓矢だって持ってます。道が一本しかない以上、どんな逃げ方をしたって追い付かれますよ」
「んなこたわかってるよ! 言ってみただけだろガリ勉の央那(おうな)ちゃん!」
ケッと吐き捨てて、口の悪い間者さんは一瞬、考えたのちに。
「このババア、道から見えるところに捨てて行くかい? 覇聖鳳が一瞥もくれなくても、他の兵たちは流石に助けようとするだろうさ」
私は彼女の意図を察し、答えた。
「いいですね。覇聖鳳の引き連れてる手勢のうち二、三人は、母親を保護するために私たちの追跡から外れるでしょう。あいつらが何人で追って来てるかはわからないけれど、多少でも戦力を減らすのは大事です」
「俺たちがこのかかあを連れててもどうせ意味がないからな。いても邪魔なことだし、そうするしかないか」
話を聞いていた椿珠(ちんじゅ)さんも、それがベターな選択であると納得した。
みんな揃って人でなしすぎて、最高である。
「鼬梨都(ゆりと)さま。短い間ですけれど、良くしていただきありがとうございました。この先のご健勝をお祈り申し上げます」
天然気味の謝辞を玉楊(ぎょくよう)さんが述べる。
えっえっと混乱している鼬梨都の服の襟を、巌力さんがむんずと掴む。
「道から見えはすれども、馬では入りにくい林の中に放り込むのが、一番でありましょうか」
「そうですね。せいぜい助けを求めて目立つように叫んでもらい、覇聖鳳たちの足を鈍らせることを期待しましょう」
私が言うと巌力さんはウムと首肯し。
「でえいっ」
「わああああああっ!!」
片手で、体の小さな老婆とは言え人間一人を、道の脇に広がる林の中へ放り投げた。
ドカッ、と一本の白樺に鼬梨都の体はぶち当たり、雪と枯葉の積もる地面にどさりと落ちた。
「い、痛いいい! 骨が、骨が折れちまったよおお!! この悪魔ども! ろくな死に方をできると思うんじゃないよ!!」
「その台詞はあんたの息子に言ってやりな!!」
大声を上げて嘆き喚く鼬梨都に、間者さんの的確なツッコミが返された。
「ぶはは、姉ちゃん面白えな」
「メェッ」
軽螢とヤギ、上機嫌。
私たちはなおも、馬たちが可哀想になるくらいに全速力で道を駆ける。
昨日から降っていた湿り気のある大きな牡丹雪(ぼたんゆき)は、次第にサラサラとした小さな粉雪に変わって行った。
気温が、急激に下がっているのだ。
薄く広がる雲の向こうに見える、昼下がりの太陽。
その柔らかな光を浴びて、降り注ぐ雪がキラキラと乱反射の細かい輝きを放つ。
世界が、すべてが白く煌めいている。
「ブヒヒイン!」
そのとき、椿珠さんと玉楊さんを乗せていた馬が、突然にバランスを崩した。
「お、おいっ!?」
「きゃっ」
転倒落馬はしなかったものの、馬はそれ以上走ることはできないと歩を止めて。
「折れてござる……」
巌力さんが馬の脚を見て、絶望の声色で言った。
ああ、無理をさせ過ぎたら、当然にこうなるよね。
そもそも私たちは馬を駆ることに関して熟練者ではないし、そんな私たちを乗せて走っていた時点で、馬にかかる無駄な負担も大きいのだ。
馬の頭数は、ギリギリ。
乗り換えることなんてもうできない。
三人乗りを採用すれば、それだけ速度は落ちるし、また馬の脚が折れるかもしれない。
私と見つめ合った翔霏がまったく同じことを考えて、頷き、言った。
「私たちの馬を使え」
椿珠さんは、馬を降りた翔霏のその言葉に一瞬、唖然として。
すぐに首を振って言った。
「お前たちはどうするんだ!? 必死で逃げれば、なんとかなるところまで来たんだぞ!?」
いいえ、なんともならないのです。
覇聖鳳は、走ることに関して言えば、私たちの想定をはるかに超えて来るやつだ。
私も翔霏も軽螢も、嫌なくらいに思い知っている。
覇聖鳳が本気で逃げた速さに、昂国の、戌族(じゅつぞく)の誰も対応できなかったように。
覇聖鳳が本気で獲物を追う速さから、無事に逃げ伸びる術はない。
ならどうするか。
私と翔霏が、口を揃えて同じ言葉を放った。
「ここで覇聖鳳を殺す」
そう、私たちの旅の目的は、あくまでも一貫しているし、共有できている。
覇聖鳳を殺すために、はるばる旅をして、地の果てまでやって来たのだ。
私たちのその決意に、椿珠さんは大声で異論を唱える。
「無理だ! 連中には弓の名手が揃ってる! 紺(こん)さんがいくら強くても、それを発揮する前に蜂の巣にされちまう! 大人数の飛び道具に勝てる道理はない!」
その不安と危惧は、まったく正しい。
翔霏は飛んでくる矢を避けられるし叩き落とせるけれど、私と軽螢はそうではないのだ。
しかし私は椿珠さんを納得させるためと言うよりも、自分を誤魔化し奮い立たせるために、こう言った。
「大丈夫ですよ。第一に、覇聖鳳たちは大人数で来ていません。兵の大半は燃えた奥宿の始末にかかりっきりのはずで、私たちを追撃して来てる数は、二十人に満たないでしょう」
「そ、そうなのか?」
翔霏が頷く。
彼女の耳が捉えている、遠くから迫り来る馬の脚音が、さほどの大軍でないことは私も容易に想像できる。
椿珠さんの疑問と怖れを宥めるように、私は自信満々の強い表情でさらに言った。
「第二に、軽螢が武器庫を燃やしてくれたおかげで、あいつらの持っている矢の数には限りがあります。なにか策を用意して矢を無駄撃ちさせれば、後は白兵戦の勝負です。素の殴り合いで翔霏に勝てるやつは、この世にはいません」
フフン、とドヤ顔で胸を張る翔霏。
私はそれを自分事のように誇らしい気持ちの笑顔で見て、最後の有利要素を全員に教える。
「第三に、覇聖鳳は明確に殺意を持って、私たちを追いかけて来ています。狩りで獲物を狙う最大の好機、それは」
翔霏がその言葉の後を続ける。
「獲物が、なにかを狙っているときだ。私たちと言う餌を狙って向かって来ている今こそ、覇聖鳳に大きな隙が生まれる。私たちにとっての死地は、覇聖鳳にとっても死地であるのだと思い知らせてやる」
「思い知ったそのときには、覇聖鳳は死んでるけどなー」
ききっ、と軽螢が笑った。
今まで覇聖鳳と何ラウンドも戦って来たけれど。
お互いがお互いを殺そうとしている対等の条件は、今この場、この状況が、はじめてだな。
覚悟がガン決まりの私たちの表情を見て、巌力さんが諦めるように言った。
「三弟(さんてい)、麗女史はこうなっては聞きませぬ。無理と無茶の中に勝機と命を拾うのが麗女史であられるがゆえ」
私と言う人間をよく知ってくれている巌力さんの言葉が、今はとても嬉しかった。
それを聞いた椿珠さんは、呆けたような表情を見せて。
決断した顔を覗かせ、言った。
「間者の姉さん、巌力と一緒になんとしてでも玉楊を守ってくれ。俺はこいつらと一緒に、覇聖鳳を食い止めて邪魔してやるよ」
玉楊さんを短気な間者さんの馬に乗せる椿珠さん。
「椿珠、あなた……」
「言うな、玉楊」
なにか言いかけた玉楊さんの言葉を、椿珠さんが制する。
玉楊さんの手をぎゅうっと握り、椿珠さんは間者のお姉さんに、行ってくれ、と小さく声をかけた。
「あたしは逃げられるならそれでいいけど、央那ちゃんたちが覇聖鳳に殺されたら、除葛(じょかつ)のやつに後で小言をもらいそうだなあ。ま、全力で言い訳してやるけれどね」
渋い顔でボヤく間者のお姉さん。
軽螢が柔らかな笑顔で彼女に告げた。
「大丈夫、大丈夫。あんなやつに殺されてやらんから。今までだって何度も生き延びて来たんだぜ」
「不思議だね。そう言われると、なんだか心配ないような気がしてきたよ」
言い残して、間者さんは玉楊さんを背に乗せ、馬を急き立て走り去った。
後に残った巌力さんがもう一度、椿珠さんを振り返る。
「三弟(さんてい)、やはり奴才(ぬさい)もお傍に。矢除けの壁くらいは務まりましょう」
「お前の仕事は、玉楊を守ることのはずだろ。自分の役目を見失うな」
きっぱり言い切られて、巌力さんは泣きそうな顔をし。
「みなさま、ご武運を」
重々しく呟いて、大きな体を馬上に揺らし、道の先へと駆けて行った。
それを見送り、椿珠さんが小さく漏らす。
「こんな俺でもやっと、自分の役目を見つけたよ。元気でな、巌力、玉楊」
翔霏、軽螢、椿珠さん、そして私。
「毛州(もうしゅう)の砦を思い出すな。ホラ、石だらけの山で、豹の怪魔に会ったときのさ」
軽螢が、少しだけ懐かしい話題を出した。
私たちが旅を始めて間もない頃に、椿珠さんの助力で国境を越えたときのことだ。
「ふむ、あのときと同じ四人か」
「メェッ!」
翔霏の言葉に、ヤギが「俺もいるんだけど」と自己主張する。
あのときは、強大で謎の多い豹の怪魔と対峙したけれど。
今回は、覇聖鳳が率いる青牙部の主力精鋭が、おそらくは十数人。
地の利、馬に依る速度、武器防具の装備。
完全に相手にアドバンテージのあるこの状況で。
私は、確信なのか負け惜しみなのか、緊張や恐怖や絶望で頭がおかしくなってしまったのか。
もうなにもかもが混然混沌としてわからない心境で、それでもこう言った。
「負ける気がしねえ」
決して長年の付き合いがあるわけじゃないけれど。
たまたま、運命という道の中で行き会って歩みをともにしている関係かもしれないけれど。
私たちの心、絆の結びつきは、なによりも固い。
炭素の四重結合であるダイヤモンドが、なにより強く美しいのと同様に。
覇聖鳳ごときが、私たち四人に勝てるわけはないんだ。
私が、武者震いの中で勝利と決着の予感に恍惚としていると。
林の奥から、ゴロゴロと稲妻のような音が鳴り響く。
『危ないぞ、危ないぞ。どうやらお前たち、ここで死ぬるようだな。待っていた甲斐があったというものだ』
いつか、毛州の岩の間で聞かされたような、不吉な声が私たちに問いかける。
『さあお前たち、誰が先に死に、誰が私に食われるのだ? 好きに答えろ、その通りに私が骨身を食んでやろうぞ』
前門の覇聖鳳。
後門の怪豹。
粉雪が音もなく降り積もる林間の道で、私たちは抜き差しもならない状況に追い込まれた。
運命、天の理は。
どうしても私たちに死んで欲しいようだった。
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