六十四話 昼行燈の秘めた技
岩に反響するその声は、発せられている位置を特定しにくい。
翔霏(しょうひ)も相手がどこにいるのか掴み切れずに、私たちを守るための防御姿勢を取るしか術がなかった。
後手に回って守りに入ることの不利を、私たちは今までにうんざりするほど体験している。
この状況は、良くない。
「腹が減ってるンなら、コイツを食って満足してくれねえかな」
「メェッ!?」
無情にもヤギの命を差し出した軽螢(けいけい)だったけれど、声の主はそれをスルーして言った。
『お前たちの若さが憎い。希望に輝く瞳が憎い。意志に溢れる声が憎い。お前たちを食って体に入れれば、私も再び若返り、それらを手に入れられるのだろうか』
低く響くその声は、どことなく哀愁や切なさを感じるものだった。
直後、上空にぶわっと巨大な影が横切る。
私と軽螢はとっさに椿珠(ちんじゅ)さんをかばうように、体を覆いかぶせた。
今の状況にあって、私たちの雇い主であり高貴な家のお坊ちゃんである椿珠さんこそが、守るべき最優先の対象だからね。
『そいつが一番、大事なのか。ならばそいつから、食ってやろうか』
岩崖の上から躍り出た怪魔が、舌なめずりをしてそう言った。
巨大な図体を持った、人語を話す豹の魔獣だった。
今までに私が目にしたどの怪魔よりも、大きい。
けれど体毛がところどころ禿げ落ちていて、みすぼらしいというか、年寄り臭い容貌である。
鉄棍を構えた翔霏と睨み合いを続け、状況は膠着した。
「軽螢、たまには働け!」
翔霏にそう発破をかけられて、軽螢が溜息を吐く。
「あー、面倒臭ぇなあ、もう」
不満を漏らしながら、軽螢が馬車の荷台の上で屹立する。
そして、豹の怪魔を左手で指差し、右手の人差し指を自分の額に当てて。
「命代天神(みょうだいでんじん)、随身絶歩(ずいしんぜっぽ)!
直直如言(ちょくじょくじょげん)、破邪調伏(はじゃちょうぶく)!!」
乾いた良く通る声で、そう叫んだ。
天神に代わって命ずる、その動きを止めよ、という意味だろうか?
軽螢の言葉を真正面から受けた豹の巨大怪魔は。
『ぬ、がぁッ!?』
苦悶の呻きを発し、その場に停まった。
「んぎぎぎぎ、早く片付けてくれよな!」
左手の人差し指を真っ直ぐに怪魔に向け、軽螢が歯を食いしばりながら言った。
え、まさかとは思うけれど。
軽螢がなにか、念とか呪い的なもので、相手の動きを封じてる!?
「たああああああああっ!!」
即座に翔霏が怪魔へ躍りかかって、ジャンプ一番、必殺の棍の打撃を打ち下ろす。
いくら巨大な化物と言えど、脳天に翔霏の一撃を喰らえば昏倒は免れない。
そう、私が確信していたのに。
ガギィィィィン!!
まるで岩の塊を叩いたかのように、翔霏の鉄棍が音を鳴らす。
弾かれて後ろに跳びすさる翔霏が、舌打ちしながら言った。
「こいつ、結界を張っているのか!?」
翔霏の攻撃でダメージを受けない生物が、いるわけがない。
それが効かないとすれば、超常的な力で、自分の体を守っているとしか思えない。
身体の周囲にぼんやり薄く光る膜を張った怪魔は、軽螢の戒めを受けて動けないながらも。
『くくく、これは美味そうな獲物が来てくれた。私の性(さが)に抗う獣の欲が、お前たちを食い殺せと胸の奥で囁きかけているぞ』
活きのいい翔霏や軽螢に対して食欲を増進させてしまったらしく、楽しそうに言った。
ど、どうするどうする!?
攻撃が効かない相手に対し、軽螢の不思議な術で今は動きを止められているけど。
軽螢の気力が切れてしまったら、私たちはまとめて、謎かけどおりであるとしても少なくとも三人は、怪魔のエサだ。
「せっかく武器を新調したのに、役に立たねえのかよ!」
「うるさい! 文句があるならお前がどうにかしてみろ!」
言い合いの間にも、翔霏が豹の怪魔に攻撃を加える。
ゴォォォン!
しかし効果もなく、その攻撃は弾き返されるばかりだった。
「クソッ! どうなってるんだ一体!!」
戦っても、勝てない。
しかし、謎をかけて来たということは、正しい返答をすれば、ワンチャンあるはずなのだ。
どのみち物理的な攻撃が効かないというのであれば、そっちの方向に望みを賭けるしかない。
私は頭をフル回転させ、一つの答えを導き出す。
「わ、私たちを食べても良いですけど、あとにしてくれますか!?」
「はぁ?」
横で聞いていた椿珠さんに、バカを見るような目をされた。
もちろん私もバカバカしい答えだとは思うけど、全滅するよりは、恥をかく方がマシだ。
続けて、大声で言い放つ。
「私たちが死んだら、そのときは食べに来てくれていいです! 死んだあとならどうなっても構いませんので!」
そう申し出て、私は椿珠さんから貰った、大きな食料袋を怪魔の前に差し出す。
「今、どうしてもお腹が空いているというのなら、これをあげますから、どうか見逃してください。その代わり、私と、翔霏と、軽螢とが死んだときには、その死体をあなたに差し上げます。椿珠さんはお金持ちの御曹司だから、死体を渡すことはできませんけど」
「なんか勝手に決められてンだけどー!」
豹の怪魔を必死で抑えつけている軽螢から、激しいクレーム。
死んだ後のことなどどうでもいいと思っているのか、翔霏は真面目な顔で怪魔と向き合い続けている。
「本当は、人を食べたくないんじゃないですか? どうしても食べたくなる衝動があるなら、あとにしようと思うことで、それを我慢できませんか? 食べるけれど、今じゃない。そう思うことで、なんとかやりすごせないものでしょうか?」
得体の知れぬ怪魔を相手に、私は必死で道理を説き、説得する。
これは私のお母さんが、連続的に常飲していた、お酒を辞めたときのメソッドだ。
飲もう、でも明日にしよう。
飲もう、でも次にいいことがあったときにしよう。
飲もう、でも麗央那(れおな)が高校に受かったときにしよう。
お母さんはそう自分に言い聞かせることで、毎晩飲んでいたお酒を大幅に減らすことができた。
欲望を完全に断つことは難しいけれど、猶予を設けて期間を延ばすことで、自分をごまかし続けることはできるのだ。
もちろんこれは、お母さんの中に「お酒は好きだけれど、飲み過ぎは良くない」と思う気持ちがあったからこそ、成功した体験ではある。
私たちの前に立ちはだかり、涎を垂らしている豹の怪魔も。
なんらかの理由で、人を食い殺したくないと思う気持ちが胸の奥底にあるのなら、あの日のお母さんと、同じであるかもしれないのだ。
『ふ、ふはは、食ってもいいが、今ではない、か。面白い理屈を述べる娘だ』
ふしゅるー、と息を吐いて、豹の怪魔は言った。
表情からはわからないけれど、笑っているのかもしれない。
「も、もうこれ以上は抑えるの、無理っぽいんだけどなー」
馬車の荷台の上で、脂汗を垂らしながら軽螢が弱音を吐いた。
戒めを受けて体を小刻みに震わせている怪魔が、さっきよりも弱弱しい口調で言った。
『私の中にある獣の心が膨らまないうちに、疾くと去るが良い。約束を忘れるな。お前たちの命が果てるとき、必ずその身を喰らいに行く』
「フン、しばらく先の話になるだろうがな」
「メェメェ、メエ」
翔霏がヤギを抱えて馬車の荷台に放り込み、自分の体も滑り込ませる。
「ずらかるぞ! お前の術、まだ効くんだろうな!?」
「なんとか頑張るから、早く出してくれよー」
椿珠さんが馬を急き立てる。
離れ際でも軽螢が緊縛の呪いを、怪魔がの姿が見えなくなるまで向け続ける。
追って来ない。
なんとか、危機は脱したらしい。
『お前たち、死相が出ているぞ。一人は近いうちに食えそうだ』
去り行く私の背後で、不吉な声が聞こえた。
私たち四人とも、あえてその予言を無視したのだった。
「せっかくあんなに、たくさんあった食い物が……」
翔霏が今まで聞いたこともないくらいに、しょげた小声で泣き言を漏らした。
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