第5話 飛鳥VS舞香

「いやだ! 別れたくない」

 シンクの中に、吐き出すように拓海は泣き声を上げた。


 その震えている背中に、飛鳥はそっとおでこをくっつける。


「大丈夫。いつかきっと思い出に変わるから」

 それは拓海を慰めているようで、実は自分に言い聞かせる言葉であった。


「じゃあ、行くね。今までありがとう」


「ちょっと待って」


 玄関に向かった飛鳥を拓海が引き留める。


「好きな人って、社長なの? あいつの所に行くの?」


 飛鳥は首を横に振った。


「結城社長じゃないわ。拓海の知らない人よ」


 飛鳥はそっとお腹に手を当てた。

 この子と二人で生きていく。


 ――私たち、多分こうなってた。たとえ拓海が浮気してなかったとしても……。

 元々未来のない恋だったのだ。

 そんな恋に拓海をいつまでも縛り付けているわけにはいかない。


「どこに行くの?」


「まだ決めてない。決まったら連絡するね」


 拓海は瞳を曇らせて、ゆらゆらと首を横にふった。

 きっと、飛鳥が連絡などして来ないと解っているのだ。


 玄関のシューズボックスの上にカードキーを置いて、ドアを開けた。


 しんと冷たい風が吹き込んで、温まっていた部屋を一気に冷やした。



 拓海は追いかけて来なかった。

 マニュアルのない突然の出来事に、対処できないでいるのだろうと思う。

 どうしたらいいのかわからない。

 それがきっと今の拓海に出せる精いっぱいの答え。

 水場で溺れている人の命を救うのは容易い事なのに、きっと自分が溺れたらパニックになってしまう。

 拓海はずっとそういう子だった。


 飛鳥は、駅とは反対方向に足を向けた。

 ガラガラとアスファルトを擦るスーツケースの音を聞きながら、およそ8年お世話になった職場を目指す。


 途中、ドラッグストアに寄って妊娠検査薬を買った。

 店舗のトイレで検査を済ませ、陽性反応を示したプラスティック棒をポケットに仕舞う。



 会社に到着すると、フロアの電灯は薄暗く落とされていたが、その奥の事務所はまだ煌々としている。

 時刻は9時半。

 事務所側のスタッフ通用口を使って中に入った。


「あ、飛鳥さん」

 事務所にいたのは美里一人だった。


 電話中だったらしく、スマホを耳に当てたまま

「今、こっちに……。あの、後でかけ直します」

 そう言って電話を切った。


「ごめんね。私のせいで残業になっちゃったよね。迷惑かけてごめんなさい」


 美里は心配そうな顔をして首を横に振った。


「いいんです。会えてよかった」


「え?」


「ああ、いえ、何でも……」

 美里は肉厚のふっくらした手で口元を覆った。


「それより体調はもう大丈夫なんですか?」


「ええ、お陰様で。もうすっかり」


「よかった」

 美里は疲れた顔でにっこり微笑んでこう続けた。


「舞香さんの妊娠って、嘘ですよ」


「うん。わかってるわ」


「知ってたんですか?」


「だって、十日前に生理休暇取ったばかりじゃない。陽性反応の検査薬見せられたからうっかり信じそうになったけど、よく考えたら変だなって」


「そうだったんですね。陽性反応の検査薬ってメルカリで売ってたりしますからね」


「本当? 怖いね」


 フェイクの検査薬が何に使われるのか大体想像がついてしまう飛鳥と美里は顔を見合わせて大笑いした。


「それから、社内グルチャに上がった画像もフェイクだそうです」


「え?」


「飛鳥さんが帰った後、社内であの話題が持ちきりで、田島さんがその状況を懸念したみたいで」


「田島さんは知ってたの?」


「拓海さんからも、舞香さんからも、どちらからも事情を聴いていたみたいですね」


「そう」


「拓海さんは舞香さんのアプローチをずっと迷惑がってて、困惑してたようです。田島さんに相談してたのは、主にそういう事だったみたい。あ、これはここだけの話にしてくださいね」


「わかったわ」


 田島は美里にだけ話したのだろうか?


「舞香さんは、拓海さんと関係があったような事を吹聴してるけど、拓海さんが言うには、そういう事は一度もなかったそうで。

 本当に迷惑してるみたいで……。

 田島コーチを交えて何度も嘘を言いふらすのはやめて欲しいって話したらしいんですけど、全然聞かないんですって。嘘じゃないって言い張ってて、あの写真はそういう経緯らしいです」


「証拠写真、みたいな事かしら?」


「そうですね。スイミングの方は、女性スタッフが人手不足で辞められたら困るからって、あまり強い事は言えなかったみたいですよ」


「ぷふっ」


 思わず笑ってしまった。


「え? 飛鳥さん? 笑いごとじゃないでしょう!」


「いや、もういいのよ。拓海とは別れて来た。美里ちゃんに言われた言葉で目が覚めたわ。引き際、見逃す所だった」


「え? え? そ、そんな……。それでいいんですか?」


「ええ」

 言葉とは裏腹に、ズキンと心臓が痛む。


「会社も急で申し訳ないんだけど辞めようと思ってる。しばらく実家に帰ろうかなって。それをね、報告しにきたの。課長、まだいるかしら?」


「今休憩で食事に行ってます。30分ぐらいで戻るはずです」


 その時だ。


「お疲れ様でーす」

 と口々に挨拶しながら、インストラクター達がぞろぞろと入ってきた。

 ミーティングが済んだ所だろう。

 その中に舞香がいる。


「舞香さん、ちょっとお話いいかしら?」


 飛鳥は舞香の肩に手をかけた。


「はい、いいですよぉ、なんでしょうかぁ?」


「ここではなんなんで」


 飛鳥は個室になっている面談室を指さした。

「はい、いいですよぉ」


 余裕の笑顔が一瞬引きつったのを、飛鳥は見逃さない。


 先に舞香を通して、続いて飛鳥が入りドアを閉めた。


 小さなアクリルの窓から、インストラクター達が興味津々にのぞき込む。


「話ってなんですかぁ? 手短に済ませてもらえますぅ? 明日、イブ前夜なんで色々準備がぁ……」


「わかったわ。手短に話すわね」


 舞香は飛鳥を斜めに見上げた。


「今しがた、拓海とは別れてきたわ」


 舞香の表情がぱぁっと明るくなる。


「ここだけの秘密にしてもらいたいんだけど、守ってもらえるかしら?」


「何をですか?」


「これ」

 飛鳥はコートポケットから検査薬を出して見せた。


「フェイクじゃないわよ。正真正銘拓海の子供を妊娠したの。私はこれで十分。この子と二人で生きて行こうって決めたの」


 舞香の顔はたちまち歪みだす。

 ギリギリと音がしそうなほど歯噛みしている。


「産む気なんですか?」


「もちろんよ。あら、どうしたの? 拓海への気持ち、変わった?」


「変わるわけない。そんな事で……。私は彼を愛してます。彼だって私を愛してるんですから」


「そう。じゃあ、きっとこれからも幸せな毎日ね。愛する恋人の子供がどこか知らない所ですくすく成長しているの。

 毎年クリスマスが来ると、あなたは今日の事を思い出して幸せを噛みしめるのかしら。

 あ、そうそう、この事は拓海には知らせない方がいいわ。

 あの子、責任感の強い子だから私の所に戻って来ちゃうから。

 あなた自身のためにも、この秘密は墓場まで持って行く事ね」


 その時だ。


 バンっと面談室のドアが、勢いよく開いた。


 そこには――。


 はぁはぁ、と大きく肩を上下しながら、息を切らしている拓海が立っていた。

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