第4話 あの日の約束
早退によって不意にできた贅沢な時間。
窓から街を見下ろせば、イルミネーションが躍っている。
予定より一日早いが、今夜は拓海とクリスマスを祝って乾杯しようと思う。
明日にはもう他人同士。
「元々か」と嘲る。
最後だから、イルミネーションにも負けないくらい、眩しく笑っていたい。
その顔で、ありがとう、あなたのお陰で幸せでしたと言おうと思う。
大き目のスーツケースに荷物を詰め込む。
とりあえず身の回りの物だけを――。
拓海との思い出が詰まった物たちはここに置いて行こう。
いらない物は拓海が処分するだろう。
体はまだ、ふわふわと宙に浮いてる感じだが、料理ぐらいはできそう。
冷蔵庫を開けて、なけなしの材料をかき集める。
玉ねぎ、ニンジン、マッシュルーム。牛乳にバター。
レタスにミニトマト。きゅうりが少々。
冷凍庫にはブラックタイガーが5尾と、いつぞや冷凍しておいたバゲット。
「ええっと、確かここに……」
シンク下の引き出しを開けると
「あったあった」
コーンの水煮缶と、ハーフボトルのシャルドネ。
ねぇ、拓海。
シャルドネってどういう意味か知ってる?
ふふ。
あのね、あなたを私色に染めるっていう意味なの。
なんかちょっとエッチよね。
「ふふ」
ワインのボトルを冷蔵庫に入れた瞬間――。
ぎゅーっと胃の辺りに絞られる感覚を覚えて思わず口元を抑えた。
不意に訪れた強烈な吐き気。
慌ててトイレに駆け込み、嘔吐した。
苦い胃液がからみつき、口中を満たす。
体中からじわじわ力が抜けていく感覚を覚えて、洗面所に座り込んだ。
――まさか。
四つん這いで這い出し、バッグからスマホを取り出す。
アプリで管理していた生理周期を確認すると、前回の生理から40日が経っていた。
――妊娠した。
不思議だが、疑問符はなかった。根拠のない確信。
間違いない。
お腹の中に拓海の子供がいる。
なんというタイミングの悪い子なのだろう。
早速、パパに似たかしら。
そう思うと自分の体が愛しくてたまらない。
お腹を優しく抱きしめて「来てくれてありがとう」と呟いた。
その時――。
ガチャっと玄関を開錠する音が響いた。
静かにレバーが下りて、ドアが開く。
拓海が帰って来たのだ。
随分早い。
予定よりも2時間ほど早い。
ドアの向こうから現れた拓海を見て、早かったのね、というより先に
「どうしたの? その顔」
という言葉が口をついた。
目元が赤く腫れ、口元には血が滲んでいる。
拓海はぎゅっと拳を握って、飛鳥を見た。
「社長を殴った」
「は? どうして?」
「どうしてだろう? 社長が飛鳥をおぶって会社を出たって聞いて、カっとなってしまって」
「殴ったのに、どうして拓海がそんな顔になってるの?」
「殴り返されたから。これでおあいこだって。俺は一発しか殴ってないのに、あいつは三発殴ってきた」
「ぷふっ」
相変わらずのおっとりとした口調に、思わず笑いが込み上げる。
「バカね」
慌ててスマホを閉じ、バッグに仕舞った。
「それで早く上がったの?」
「ううん、田島コーチが今日は早く帰れって」
「田島さんが?」
「うん。田島コーチには飛鳥の事話してたから、あの人だけは俺たちの事知ってるんだ」
「そっか。私が具合悪くなった事、聞いたのか」
「うん。大丈夫?」
「うん。もう全然平気。ご飯作るね」
さっきまでの吐き気はすっと引いて、体が自由に動く。
どうにかやり切れそう。
キッチンで手を洗って、野菜たちの皮を剥く。
「何作るの?」
「エビグラタンと、コーンスープ。伊勢海老じゃなくてごめんね。今日は二人でクリスマスパーティしよう。ワインも冷やしてあるの」
「どうして?」
「なにが?」
「今日は、機嫌がいいみたい」
「うん。とっても機嫌がいい」
「いい事あった?」
「うん。お風呂でもゆっくりつかってらっしゃい」
「わかった」
これまでのひりついていた空気は、この部屋にはもうない。
別々の道を歩いていくのだと決めた瞬間から、飛鳥の気持ちは軽かった。
フライパンの上で、小麦粉とバターを混ぜ合わせながら鼻歌まで零れてきそう。
オーブンが焼き上がりを知らせる頃、拓海はバスルームから出て来た。
テーブルの上にはハーフボトルのシャルドネと、ワイングラスが二つ。
ランチョンマットに焼きあがったグラタンを並べて、保温しておいたコーンスープをお皿に注ぐ。
トースターで焼いたバゲットにオリーブオイルをかけて――。
「さぁ、食べよう。乾杯しようか」
拓海は怪訝そうに飛鳥を見ながら、おもむろに椅子に腰かけた。
「コルク抜いてくれる?」
ワインを渡すと、小さく頷いて受け取った。
スポンと景気のいい音を鳴らして、甘い香りが漂う。
拓海からボトルを受け取って、グラスに注いだ。
拓海は飛鳥からボトルを取り、グラスに注ごうとしている。
「あ、私は、いい」
「え?」
不思議そうな顔を見せる。
「まだ、体調があんまり……だから。今日はやめとく」
空っぽのグラスを持ち上げて、拓海のグラスにカチンと当てた。
「メリークリスマス」
じんわりと体が熱を持つほど幸せだった。
――拓海、心配しないでね。
生まれてきた子供には、あなたのパパはとっても素敵で素晴らしい人だったと言うから。とても大切に、愛してくれた。
ただ、別々の道を選んだだけだと、ちゃんと言うから。
「美味い! 死ぬほど美味い」
「そう。よかった」
拓海が幸せそうに食べている姿を見ているだけで胸がいっぱいで、飛鳥は一口のコーンスープだけで匙を置いた。
「食べないの?」
その言葉は、食べないならちょうだい、と同義だ。
「うん。食べる?」
「うん。食べる」
嬉しそうに笑う。
この顔! 久しぶりに見た気がする。
「あーー、美味しかった。ご馳走様でした」
丁寧に手を合わせてお祈りする拓海。
食器をシンクに運んだ背中に告げる。
「拓海。今夜で私たちはおしまい。別れましょう」
拓海はしばし体を硬直させた後、ガシャンとシンクの中に皿を落とした。
「どうして?」
割れた皿を見ながら、そう訊いた。
「他に好きな人が出来たの。だから、さようなら」
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