第3話 不毛な恋のダメージ

 吐き気を催すようなバニラの甘い匂いが漂う更衣室。

 毒気を伴うこの匂いは舞香から発せられている。


 今にも乱れそうな呼吸を整えようと、何度も深呼吸をした。


「そういう事なんでぇ、とっとと拓海先輩を解放してくださいね、では」


 そう言って、更衣室を出て行った。

 視界が歪んでは、天井が回り出す。

 立っている事さえ辛く、壁伝いに飛鳥も更衣室を出た。


 ――始めからわかっていた事。


 呪文のように心の中でその言葉を何度も繰り返して、自分を取り戻そうと試みる。

 壁に体を預けながら持ち場を目指す。


 けれど、ダメみたい。


 肺が正常な呼吸を拒んでいる。体の中の細胞が一つ一つ弾けては失われて行く感覚が襲う。


 ダメだ。立っていられない。

 視界は暗くなり、はぁはぁという短い呼吸はもうコントロール不能。

 体全体を締め付けた。


「柊さん、柊さん! 大丈夫?」

 男性の声だというのはわかる。

 完全に床にへたり込んでしまった飛鳥の上体を、抱き上げている人物の顔が霞がかった視界に映り込む。


 見覚えのある顔だ。

 よく知っている顔。

 それなのに、声が出せない。

 首を横に振る以外、意志を伝える手段がない。


 そう。もう……大丈夫……じゃない。


「誰か! ビニール袋持って来て。ビニール袋!」


 がっちりとした体形にスポーツ刈り。

 そうか、この人は拓海が慕っているあの人だ。


 ジムリーダーの田島陽介。

 田島は飛鳥の口元をカバーするように手のひらで覆った。

「柊さん、大丈夫。ゆっくり呼吸して、ゆっくり、ゆっくり」


 誰かが持ってきたビニール袋で口元が覆われ、徐々に正常な呼吸を取り戻した。


 しかし、脱力した体は簡単に立ち上がる事ができず、田島に抱えられるようにして医務室に連れてこられた。


 瞼は現実を拒んでいるようで、固く閉ざされ目の前には暗闇が立ちふさがっていた。



 いつの間にか眠っていたみたいだ。

 目を開けると、傾きかけた太陽が窓から差し込み、大きな背中を映し出した。

 こちらに背を向けて、窓の外を眺めているのは――。


「俊介……さん?」


 弾かれるようにこちらに振り返った俊介は心からの安堵の笑みを漏らした。


「飛鳥さん! 目が覚めましたか」


「すみません。業務中に」


 慌てて起き上がろうとしたが、その瞬間もやっと吐き気が襲った。


「いや、いいんですよ。それより今日はもう帰って休んだ方がいい。僕が家まで送りましょう。デートはまた次にしましょう。会食は田島コーチに同行してもらう事にしました。今、車を回して来ますね」


「いえ、そんな」


 遠慮の声は届かず、俊介はすぐさまその場から消えた。


 数分後、医務室に現れたのは美里だった。

 飛鳥の荷物を持って来てくれたようだ。

 俊介が指示したのだろう。


「大丈夫ですか? 田島さんの話だと単なる過呼吸だって言ってたけど」


「ええ、もう大丈夫。この頃、体調があまりよくなくて、色んな事が重なってしまって」


「舞香さんの話はなんだったんですか?」


「ああ、なんだったかしら? あ、そうそう。妊娠したらしいわ」


 わざと何でもない事のように振舞った。悲劇のヒロインに成り下がる気はない。


「それでシフトの相談だったと思うんだけど、後で聞いてあげてもらえるかしら?」


「え? 妊娠?」

 怪訝そうな顔を見せる美里。


「それって舞香さんが言ったんですか?」


「ええ。確かそう言ってた」


「へぇ」

 と言いながら、眉間にしわを寄せ、首をかしげる。


 ガチャと扉が開き、俊介が現れた。


「飛鳥さん。行きましょうか。エントランスに車を回しました」


 俊介に美里は見えていないのだろうか?

 他の社員の前で特別扱いするのはやめてほしい。

 いい機会だから、それも伝えよう。


 呆れた顔で医務室を出ていく美里。


「美里ちゃん、ごめんね。ありがとう」

 美里は少しだけ振り返って、雑に会釈して去って行った。


 ベッドの脇に置いてある飛鳥の荷物を全て抱えると、俊介はこちらに背中を向け、屈んだ


「え?」

「え? なんですか? おんぶですよ」


 かーっと頬が熱くなる。


「いいです、そんなの。大丈夫です。歩けます」


「いや、ダメです。心配です。早く、僕の背中に乗ってください」

 頑として体制を変えようとしない俊介。


「早く!」


 そう言えば、会食に出かけなければならないのだ。こんな事で時間を取らせては申し訳ない。


「じゃ、じゃあ、失礼します」


 渋々、言われるまま俊介の両肩を掴んだ。

 ひょいと、体はいとも簡単に宙に浮いた。

 背中の温もりがじんわりと飛鳥の不快感を和らげていく。


 医務室を出ると、ぽつりぽつりすれ違う社員たちが、チラチラこちらを見ては不思議そうな表情を浮かべ。


「お疲れ様でーす」

 と会釈しながら通り過ぎる。


 恥ずかしい。


 俊介はお構いなしで「お疲れ様です!」と挨拶を返しながらずんずんエントランスの方へ歩みを進める。


 会員や利用客、スイミングの子供たちでごった返しているフロアで、笑顔の挨拶を振りまきながら外に出た。


 入口を塞ぐような形で停まっている白のレクサス。

 後部座席を開けて、ようやく飛鳥を背中から降ろした。


「さぁ、どうぞ」


「ありがとうございます」


 後部座席に乗り込むと、ドアを閉めてくれた。

 紳士的な振舞いはいいのだが――。


 運転席に乗り込んだ俊介に、真っ先に言わなければいけない事がある。


「ここに車を停めたら、お客様の邪魔になりますよ」


「はい、そうですね。しかし、緊急事態でした。以後気を付けます」


 そう言って、バックミラー越しにニッコリと笑顔を見せた。


 車窓を流れる、きらびやかに彩られた街並みを眺めながら思う。

 明日はイブ前夜か。

 恋人たちが最も盛り上がる日。


 一度ぐらいこの街を、拓海と手を繋いで歩きたかったなぁ。


 飛鳥はひっそりと、しかし強く心に決めた。


 今夜、拓海に、さよならを言おう。

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