第4話 拓海と俊介

 反射的に拒絶してしまった。

「ごめんなさい!!」

 勢いよく彼の胸を押しのけて、背中を向けた。

 ほんのひと時の温もりとロマンスは、一瞬にして砕け散った。


「ごめんなさい。あなたがあまりにも悲しそうな顔をしていたから」

 俊介のその言葉は飛鳥を酷く傷つけた。


「やめてください! 同情なんて……」

 腹立たしくも思える。


 勢いよく玄関に向かい、サンダルをつっかけて部屋を出た。


 悲しい顔なんて見られたくなかった。

 一刻も早くあの場を立ち去りたかった。


 後追いするようなアスカの鳴き声が耳の奥にこだましていた。


 誰に対してなのか、何故だかわからない怒りがまとわりついて呼吸が早くなる。


 随分重く感じる足元に時々躓きながら。


 ――私は不幸な女なんかじゃない。年下の男との別れぐらいで自分を見失うほど馬鹿な女じゃない。

 自分にそう言い聞かせて、自室に戻る。


 しんと冷えた部屋では、拘って揃えたインテリアさえも、なぜだか殺伐として見えた。

 拓海と一緒に選んだ食器も、玄関ラグも、スリッパも。

 色褪せて侘しさを際立たせる。


 勢いよく脱いだサンダルを揃えようと玄関に視線を落として、ハっとした。


 男物のサンダル……。

 間違えて、俊介のサンダルを履いて来てしまった。


 道理で足が重かったわけだ。


 すぐに引き返すのもなんだかカッコ悪い。

 どうしてあんな態度を取ってしまったのだろう。


 咄嗟に出てしまった言葉と態度。

 俊介は何も悪くないのに――。


 感じ悪い上に、気まずい。


 上り口にペタンと座り込んで、しばらく俊介のサンダルを眺めていた。

 もしかしたら追いかけて来るかも。

 そんな期待はすぐに打ち砕かれる。


 何せ、俊介は飛鳥の部屋のナンバーを知らないのだ。

 8階にはおよそ20世帯。

 表札を出している部屋は皆無だ。

 しかも、フルネームは教えていない。


 ガチャっと玄関のレバーが下りた。


「え?」

 俊介だろうか?

 どうしてこの部屋がわかったのだろう?


 しかし、ゆっくりと開いたドアから現れたのは、拓海――。


 座り込んでいる飛鳥を不思議そうな目で見ている。


「ただいま。どうしたの? なにかあった?」


 拓海の視線は、玄関に揃えられている俊介のスリッパに移動した。


「おかえり。別に、何もないわ。早かったのね」

 時刻は3時。

 飛鳥自身も随分俊介の部屋に長居していた事に驚く。


「誰か来てるの?」


「ううん。誰も、来てはいない」


「これは?」


 スリッパを指さす。

「ご近所さんの……」


「ご近所さん?」


「そう、10階の人」


「どうして、ここにその10階の人のサンダルがあるの?」


 拓海は何かを察した様子で、急いでスニーカーを脱ぐと、プールバッグを放り投げた。

 ずんずん中に入って行く。

 部屋の中に誰かがいると思っているのだ。


 寝室の扉を開け、クローゼットを開け、ベランダに続くガラスサッシを開け、次々に誰かの存在を探す。

 バスルーム、トイレ……。

 誰かいたとしたら、間違いなく掴みかかる勢いだ。


「誰もいないって言ったでしょ」


「どういう事?」

 怒気を帯びた表情。

 こんな拓海の顔を、飛鳥は初めて見た。


「拓海が帰って来るまでの間、ジョギングに出かけたの。せせらぎ公園に行く途中で、偶然知り合った人が、同じマンションの10階の人だった」


「男?」


「そうよ」


「独身?」


「そうよ」


「何歳?」


「えっと……34歳、だったかな」


 まるで尋問のように質問を繰り出す。


「で? それから?」


「拓海がお昼いらないって言ったから、作っておいた餃子を届けた。食べてもらおうと思って」


「どうしてそんな事したの?」


「もったいないじゃない。一人じゃ食べきらないし」


「その人の部屋に上がったの?」


「ええ。それで帰る時、間違えて履いてきてしまった。返しに行かなきゃ」


 それだけ言って、飛鳥は立ち上がった。

 拓海はそんな飛鳥を押しのけて、俊介のサンダルを拾い上げた。


「俺も一緒に行く。いいよね?」


「ええ。いいわ」


 何も後ろめたい事はない。

 むしろ拓海を紹介しておくことで、深入りせずに済むはずだ。

 飛鳥は離婚以来、そもそも恋愛などする気はなかったのだ。

 この先もずっと、恋愛というイベントは飛鳥には不要。


 拓海は脱いだばかりのスニーカーを履いて、飛鳥はシューズボックスから自分のサンダルを出して履いた。


 エレベーターは1階で止まったまま、なかなか上がって来ない。

 上ボタンを連打して、苛立ちを見せる拓海。

 普段穏やかなだけに怒ったら何をするか想像がつかない。


「階段で行こう」

 まるで決戦の日を迎えているかのように、唇と目を尖らせている。

 何が一体、彼の逆鱗に触れたのだろうか?


 拓海が怒る理由が飛鳥にはさっぱりわからなかった。


 階段を上がり切った所で拓海は飛鳥のほうに振り返った。


「何号室?」


「1010号室」


 一番奥の角部屋。

 このマンションで一番高い部屋。


 そこへ、拓海は肩で風を切りながら、ずんずん歩いて行く。

 なんの躊躇もなく、インターフォンを押した。


 ワンワンワンワンワン。

 けたたましく、アスカの鳴き声が聞こえ、ゆっくりとドアが開かれた。


 俊介は一瞬戸惑いを見せたが、すぐに察したようで、大人の笑みを湛えた。


「ああ、飛鳥さん。先ほどはありがとうございました」


「いえ。こちらこそ。私、サンダルを間違えて履いて帰ってしまって、あの、その……」


「ああ、そうでしたか? 全然気づかず、ごめんなさい」


 俊介は玄関の隅っこに大人しく佇む飛鳥のサンダルを拾い上げ差し出した。


「すいません、本当に」


 サンダルを受け取ると、俊介は拓海に視線を向けた。


「こちらは?」


「一緒に暮らしてる……同居人。拓海っていいます」


「どうも」


 拓海は不愛想に頭を下げて、彼のサンダルを差し出した。


「話は伺ってますよ。拓海君? 飛鳥さんみたいな素敵な恋人がいて羨ましいね」


 その声はさっきまでとは違う。

 どこか挑戦的な意図が込められてるような気がした。


「どうも」

 拓海も引く気はなさそうだ。


「もう、7年だったっけ? 一緒に暮らしてるんだよね?」


 拓海は尖らせた目で飛鳥の方に振り返った。


「そんな事まで話したの?」


「ごめんなさい、いけなかった?」


「7年と言ったら、女性にとっては気軽に考えていい年月じゃない。そろそろ結婚とか考えてるの?」


「結婚? 結婚とかは、まだ、そんな……」


「考えた事もなかった? 7年も女性を拘束しておいて?」


「は? あんたにそんな事言われる筋合いないよ」


「はは。それは失礼」


 俊介は飛鳥に目配せした後


「では、仕事に取り掛かったところだったので、失礼しますね」


 そう言って、ゆっくりと扉を閉めた。


「くそ! なんだあのおっさん。偉そうに余裕見せやがって。何者?」


「さぁ? どこかの会社の偉い人かもね」


 俊介が何者かを知る事になるのは、週明け、月曜日の事だった。

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