第3話 俊介の部屋で

 ピンポーン。


 1010号室のインターフォンを押すと、ワンワンワンワンとけたたましく吠えるアスカの声。


 と同時に、すぐにドアが開かれた。


「あの、これ」

 本来なら拓海に食べさせるはずだった分、ジャンボ餃子3個を並べ入れた、プラスティック容器を差し出した。


「うわぁ、でっかい。美味しそうですね」

 初めて見た人は、そのダイナミックなビジュアルに驚くだろうと思う。

 例に違わず、俊介も一瞬上体を仰け反るようにして目を見開いた。


「あ! そうだ。これから人に会う予定ありますか?」


「え? いえ、得には」

 質問の意図が呑み込めないのか、俊介は顔にクエスチョンマークを貼り付けた。


「キスする予定は?」


「えへ? どういう意味ですか?」


 その顔に笑いがこぼれだす。


「うふふふふ、にんにくたっぷりなので、気を付けてください」


「なぁんだ、そういう事か。ご心配なく。今日も明日も明後日も、キスする予定はありませんよ」


「それはよかった。安心してかぶりついてください」


「はい。飛鳥さんは?」


「え?」


「誰かとキスする予定」


「あ、ああ。特には」

 飛鳥の答えに、俊介はにっこりとほほ笑んだ。


「よかったら上がってください。ちょうどコーヒーを淹れたところで」


「え? あ、でも」


「餃子の感想を直接伝えたい。それに僕の淹れたコーヒーの感想も聞きたいんです」


「そう、ですか。じゃ、じゃあ、お邪魔します」


 適当につっかけて来たサンダルを脱いで、俊介について中へと入った。

 想像以上に広い部屋。

 と思ったが、それはすぐに勘違いであったと気付いた。

 家具類がほとんどないのだ。

 テレビもテレビボードもデスクもダイニングテーブルも食器棚も。

 あるのは大きめのソファとガラス製コーヒーテーブル。その上にはスペックの高そうなノートパソコンがひっそりと佇んでいる。


 そして、その下に敷かれているセンターラグ。

 それらのセンスの良さが、イタリア製であることを伺わせる。


「殺風景でしょう」

 俊介は鼻の頭を掻きながら、今しがた飛鳥に渡された餃子をコーヒーテーブルに置いた。


 部屋には淹れたてのコーヒーの香りが充満している。


 俊介は続き間になっている部屋の引き戸をサラサラと開けて見せた。

 本来なら寝室になる部屋である。


 そこには、引っ越し業者のロゴ入りの段ボール箱が、たくさん積み上げられていた。


「ああ、引っ越ししてきたばかりなんですね」


「はは、そうなんです。それでももう1ヶ月も前なんですけどなかなか片付かなくて」


「一人だと、そうなっちゃいますよね」


「必要な物だけを段ボールから探し出して、最低限の暮らしを強いられてます」


「何かお手伝いしましょうか?」


「いえ、さすがに業者を手配しました。明日、ちゃんと人間らしい暮らしができる部屋になる予定です。明後日から新境地での仕事が始まるので」


 新境地?

 転職でもしたのだろうか? それとも独立?


「あ、そうそう。飛鳥さんに頼みがあるんです」


「え? は、はい。なんでしょうか?」


 俊介は寝室に入り、クローゼットを開けた。


 中にはずらっと上質を匂わせるスーツが並んでいる。


 その中から2点のスーツを取り出し、体にあてがう。


「こっちと、こっち。どっちがいいと思いますか?」


「ああ、初出勤のスーツ選びですね。うーん。ブルーが似合ってますけど、それなりに役職のある方でしたら、やはり紺の方がいいかな」


「やはりそう思いますか。じゃあ、紺にします。


 と言う事は、それなり役に職のある方、という事か。


「ネクタイは、こっちとこっち、どっちがいいですかね?」

 ペイズリー柄のグレーと赤のネクタイをひょこひょこと体の前を行ったり来たりさせる。

「グレーが渋くて素敵ですけど……、私は赤が好きです」


「じゃあ、赤にします! よかった。自分で決めかねてた所でした。本当に助かりました」


「いえ。これぐらい、いつでも。それに……」

 クローゼットを閉じた俊介は、飛鳥の言いかけた言葉に振り返った。


「それに?」


「奥様の事、話したくなったらいつでも呼んでください」


「それは何よりありがたい。ありがとうございます」


「いえ」


 しばし見つめ合う。


「あっ、コーヒー! さぁ、座ってください」


 俊介は飛鳥の前を横切って、リビングへ移動する。

 その後に、続いた。

 足元には、先ほどからアスカがキャンキャンと嬉しそうに飛び跳ねながら、じゃれついている。


「突然の事で、コーヒーしかないですが」


 そう言いながら、しゃれたカップになみなみとコーヒーを注いだ。


「ありがとうございます。それより、餃子。熱いうちに召しあがってください」


「はい。いただきます。あ、どうぞ」

 と、飛鳥をソファに促した。

 腰掛けると、ふわりと上質な皮の香りが漂う。

 そこへ、すかさずアスカがやってきて、膝の上にちょこんと乗っかった。

 可愛らしい重みに、笑みがこぼれる。


「んんっ! 美味い! もちもちしてて、肉汁たっぷりですね。これは美味い!」


 その満足そうな表情は、飛鳥の心を随分癒してくれる。


「これは、ラーメンを超えましたね。僕の大好物は餃子になりました」


「うふふ。そんなに喜んでもらえるなんて、作った甲斐がありました」


 ソーサーに添えられているミルクを垂らして、一口コーヒーを啜る。


「すごく香り高い。私はあまり詳しくないですが、いい豆を使ってらっしゃるんでしょ?」


「いいえ。豆はチェーンのコーヒーショップの物なんです。ただ、水には拘ってます」


 そう言って、俊介もコーヒーをすすった。


「飛鳥さんの事を聴いてもいいですか?」


「ええ」


「ご家族は?」


「……10年ほど前に離婚したんです。子供はいません」


「じゃあ、今はお一人で?」


「同居人がいます」


「同居人? 恋人ではなく?」


「彼は16歳年が下なんです」


「それでも愛してるのなら……」


「愛してます。とても彼を……。でもその思いはいつも一方通行のような気がしていて、恋人と呼ぶにはあまりにも……未来がなくて」


「いろいろと複雑なんですね」


「ええ、とっても」


 この部屋にはとても穏やかで、上質な空気が流れているような気がした。




「それでは、私はこれで」

 膝に乗ったアスカを床に下ろそうとした瞬間だった。


 アスカがぴょんと飛び跳たのだ。


「あ、危ない」

 二人同時にアスカに伸ばした手が触れあった。

 アスカは無事着地して涼しい顔で部屋を走り回っている。


「あ、ごめんなさい」

 慌てて引っ込めた手を俊介はさっと握り、強引に引き寄せた。


「え?」


 次の瞬間、飛鳥の体は俊介の大きな胸の中に包まれていた。

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