第2話 彼の嘘

 木漏れ日が、緩やかに温めるベンチに腰掛けて、しばし休息をとる。

 飛鳥の隣には、一人分の空間を空けて俊介が腰かけている。

 その足元で大きなスニーカーをかじるアスカ。


「こら、やめなさい! アスカちゃん!」

 ふざけて声をあげる俊介。


「アスカちゃん」という響きで、また泣きたくなった。


「私、そろそろ帰りますね」

 あれからずっと俊介と一緒に、散歩コースを軽く流しながら話をしていた。

 話題のほとんどが、俊介の亡くなった奥さんについての話だったが、しばしの現実逃避にはちょうどよかった。

 とっても素敵な惚気話に、幸せをおすそ分けしてもらった気分だ。


「え? もう帰っちゃうんですか?」


「はい。お昼の支度があるので」


 俊介は急に気まずい表情を見せて、立ち上がった。


「そうですよね。ご家族がいらっしゃいますよね。すみません、長々とくだらない昔話に付き合わせてしまって」


「いえ、とても楽しかったです。素敵なお話をありがとうございました」


「いえ、とんでもない」


「では。今度こそ本当にさようなら」


 そう言って、軽く会釈をして、彼に背を向けた。


「あの、飛鳥さん」


「はい?」


 振り返る。

 俊介は、神妙な顔に少しだけ笑みを匂わせている。


「お幸せに」


「はい。ありがとうございます」

 精いっぱい、幸せそうに笑って見せる。

 

 再び俊介に背を向けた瞬間、何の前触れもなく、涙が一筋頬を伝った。


 時刻は12時30分を少し過ぎたところ。

 もうすぐ拓海が帰ってくる時間だ。


 しかし、足取りは重かった。

 舞香が訪ねて来た事を話すべきか、何も言わざるべきか。

 その答えをまだ見つけられずにいた。


 どうせ、明日仕事に行けば、舞香本人が拓海に何か言うのだろう。

 拓海から何か言ってくるまでは、知らない顔をしておこうか。


 拓海は飛鳥の事を、舞香にどんな風に伝えるのだろうか。


 そんな事を考えていると、心臓をぐちゃぐちゃに掻き回されるような、いやなざわめきが襲う。


 重く歩みを進める足先ばかりを見ながらマンションの前に到着した。

 ふと顔を上げると進行方向の20メートルほど先に、拓海の背中が見えた。

 その隣にはなぜか、舞香……。

 二人は肩を並べて、飛鳥から遠く離れていく。


 もしかして、マンションの前で拓海を待ち伏せしていたのだろうか。


 角を曲がって、二人が見えなくなった。

 その時だ。

 ポケットの中で携帯が震えた。

 拓海だという直感は……


 当たってしまった。


 スクリーンには、短いメッセージが映し出されている。


『今日、遅くなる。田島コーチに誘われたからご飯食べてくる』


 どうして嘘吐くの?

 わざわざ、どうして嘘吐いたの?

 いつも遅くなる理由なんて言わなかったじゃない。

 どうして今回に限って理由が必要だと思ったの?


 涙は体内にとどまらずあふれ出し、飛鳥から立っている事すら困難なほど力を奪った。


「……馬鹿みたい」


 舞香の事を話すべきかどうかなんて悩む必要すらなかった。


 急いで帰って来る必要もなかった。


 今にも倒れそうな体を壁に預けて、どうにか座り込む事を回避する。


「あれ? 飛鳥さん?」

 とぼけた声と、足元に纏わりつく小さなアスカが、飛鳥を日常に引き戻した。


「あ! 俊介さん」

 急いで涙を拭う。


「どうかしましたか?」

 俊介は心配そうに訊ねた。


「いえ、なんでもないんです。もしかして、同じマンション……とか?」

 飛鳥はマンションを指さして俊介の顔を伺う。


「え? 本当に? そんな偶然あります?」


 察した直後、お道化た顔で目を瞬かせている。その表情がおかしくて、つい笑いがこみ上げる。


「一応、百世帯ほどの住人がいるので、そういう偶然も不思議ではないですけど」


 少し意地悪を言った。


「いやー、これは運命でしょう」

 俊介は乗っかるようにして冗談を言うのが上手な人だ。


 飛鳥のカードキーでロックを解除して、二人でマンションのエントランスをくぐった。

 エレベーターの前で俊介はアスカを抱き上げた。

 ちょうど1階で止まっているエレベーターに乗り込む。


「何階ですか?」


「私は8階です」


「僕は10階です」


「最上階ですね」


「静かで助かってます」


「あ、そうだ!」


「ん? なんですか?」


「餃子、好きですか?」


「餃子? 大好きです。ラーメンの次に餃子が好きです!」


「よかった。たくさん作ってあるので後で持って行きます。何号室ですか?」


「1010号室です。いいんですか?」


「はい。皮から手作りしたんです。余っちゃうのもったいないから食べてもらえたら助かります」


「嬉しいな。手作りの餃子なんて何年振りだろう」


 俊介は顔を紅潮させて喜んでいる。


 拓海の好きなもちもち餃子を、今しがた知り合ったばかりの男性に食べさせるという行為が、飛鳥を少しだけ救った。


 パンポンという音と共に8階でドアが開く。


「じゃあ、後ほど。今から餡を包んで焼くので20分後ぐらいにお邪魔しますね」


「わかりました。楽しみに待ってます」


 このマンションの最上階と言えば、値段も間取りも一回りほど違う。

 住人はというと、医者や弁護士。会社経営者などが主だ。


 きっとお金持ちのはずなのに、ラーメンや餃子という庶民的なワードが、俊介に対しての敷居を低くした。

 


 部屋に入り、早速キッチンに立つ。

 丁寧に手を洗って、餃子作りを再開させた。


 当初の予定通り、大きな皮にたっぷりの餡を包む。

 強火でフライパンを温め、ごま油を引いた。


 規格外の餃子を入れてコップ一杯の水を流し込み、素早く蓋をする。

 蒸気が満たされて、皮が水分を含んだら、蓋を開けてしばし放置。


 たちまち部屋には香ばしい香りが充満していく。


 ビールに合う!


 この餃子を食べながら、ビールをグビグビ。

 拓海と一緒に、映画を観ながらそんな時間を過ごしたかったなぁ。


 蛇口をひねったような涙は、もう自分ではどうにもコントロールできない。

 カーテンを閉じたままの窓に向かって、大きな声を上げた。


「うわぁぁぁぁぁあああ、っあぁぁぁっうあぁぁああああああーーーーーー」


 ぼたぼたと音を立てて床に落ちる涙は、まるで体内に溜まった毒素のよう。

 流れ落ちる度に、脳がしびれるほどの快感を覚えた。

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