Episode2 それぞれの道へ

第1話 愛する人の面影

 軽めのランニングシューズを履いて、マンションを出た。


 両耳にワイヤレスイヤホンを突っ込んで、流れ込んで来るアップテンポな音楽に乗り、リズミカルにアスファルトを蹴る。


 片側一車線の住宅街を通り抜けて、ランニングコースのある大きな公園を目指す。

 あの公園は空気がいい。

 マイナスイオンが放出されているみたいに。

 小さな川のせせらぎが聞こえるスペースは、地域の住人の癒しの場になっている。


 100メートルほど先に、森のように密集したあおあおとした木々が見え始めた頃だった。

 足元にふわっと何かがまとわりつくのを感じた。


 慌てて立ち止まると、真っ白いふわふわの小さな犬。

 ちぎれんばかりに尻尾を振って、こちらに笑いかけているみたいだ。


「かわいい。ぬいぐるみみたい」

 思わずそんな呟きがこぼれた。


 首輪はついていない。

 辺りを見回しながら、耳のイヤフォンを抜いた。


「待てーーーー、おーーーーい、待てーーーーーー」

 背後からの声。


 犬は逃げる事もなく、飛鳥の足元で尻尾を振っている。

 声の主は、リードを持ち上げたり、振ったりしながらこちらに走って来る。

 逃げ出しちゃったんだろうな。

 飛鳥は再び犬が逃げてしまわないように、しゃがんで構ってやった。


「やんちゃな子だね。飼い主さんを困らせちゃったのかな」


 まるで飛鳥の声に反応するかのように、一層尻尾を振って手に体を擦りつけてくる。

 ふわっとした柔らかい毛並みが温かい。


「すいません。助かりました。ありがとうございました」


 はぁはぁと激しく息を切らした男性は、犬に首輪をかけながら、愛想のいい笑顔を見せた。


「首輪が抜けちゃって」

 言い訳するようにそう言って、不器用そうに首輪を付けているがなかなか上手くいってない。


 犬は飼い主をおちょくるように、ひょこひょこと首輪から逃れようとする。

 男性は30代半ばに見えるが、着ている服は上質で、有名ブランドのスウェットだ。

 短く刈り上げられた襟足からは清潔感があふれ、ほのかにコロンの香り立ち上っている。


「すいません。ちょっと抑えておいてもらえませんか?」


「あ、はい、はいはい」

 飛鳥は言われるまま、犬の体を両手で支えたが。

 男の焦った表情と、小さなワンちゃんに振り回されてる姿が、大きな体と精悍な顔つきに不釣り合いで、思わず笑いがこみ上げる。


「何がおかしいんですか?」

 少し口を尖らせた顔が拓海と重なって、胸の奥がきゅっと締め付けられた。


「あは、ごめんなさい。何歳ですか?」

 犬の頭をなでながら訊ねると


「34歳です」


「あ、いや、あの……ワンちゃん」


「あー、そっちかぁ」

 丸出しのおでこに手のひらを当てて、大げさに仰け反った。


「ですよねー。はっはっはー。えっとー、もうすぐ一歳です」

 あまりにも豪快に笑うので、飛鳥もつい釣られて大笑いした。


「お名前はなんていうんですか?」


「えっと……僕じゃないですよね? コイツですよね?」


「はい。ワンちゃんのお名前」


「アスカって言います。メスのポメラニアン。まだ飼い始めたばっかりで躾もできてなくて……」


 思わず固まってしまった。そんな飛鳥を見て、男は不思議そうな顔をしている。


「どうかしましたか?」


「あ、いえ。私も飛鳥。同じ名前だなっと思って。飛ぶ鳥で飛鳥です」


「え? それは、偶然というか、奇跡と言うか。運命を感じますね」


「運命までは感じません」

「はは、そうですよね」

 冗談のセンスは最悪だと思ったが、何も考えずにバカみたいに笑える時間はありがたかった。


「僕は俊介しゅんすけです。俊才の俊に厄介やっかいの介」


「え?」


「え? 名前。飛鳥さんが名乗ってくださったので、僕も名乗りました」

「あは。厄介な俊才さんなんですね」

「あははは、そうです。スケベの方じゃなくて、厄介のほうです。飛鳥さん面白い方ですね」

「俊介さんも!」


 ようやく首輪をつけ終えた俊介は立ち上がって「じゃあ、また」と丁寧にお辞儀をした。


「じゃあ、さようなら」

 飛鳥も軽くお辞儀をして、犬のアスカにバイバイと手を振り、公園に足を向けた。


「じゃあ」

「じゃあ」


 お互いに会釈をしながら同じ方向に歩いて行く。


「あっ」


「えっと……」


 なかなか遠くならない距離が気まずくて、笑いが吹き出す。

 俊介も同じように笑っている。


「もしかして、行先はせせらぎ公園ですか?」

 訊ねると、俊介は恥ずかしそうに首肯した。


「もしかして、同じでした?」

 今度は俊介が訊いた。

 顔を見合わせてクスクスと笑う。


 音楽はすっかりポケットの中に仕舞い、軽やかにジョギングする飛鳥。

 真っ白いポメラニアンのアスカに、引っ張られるように小走りする俊介。


 二人は同じスピードで、先ほどから変わらない距離を保ったまま、同じ場所へと向かった。


「よく行かれるんですか? せせらぎ公園」

 俊介が息切れ気味の声で訊ねる。


「ええ。ジョギングするのに最適なんですよ、あの公園。毎日行くのが理想なんですけどこの頃さぼり気味でした。よく行かれます? せせらぎ公園」


「いえ。実は散歩させるの今日が初めてで」


「へぇ、お散歩デビューですか。記念すべき日ですね」


「記念? そうですね。そう言えばそうです。写真でも撮ろうかな」

 俊介はそう言ってポケットからスマートフォンを出した。


「あ、撮りましょうか? アスカちゃんと並んでる所。歩いてる所の動画がいいかな」


「そうですか? いいですか? じゃあ、動画でお願いします」


 そう言って、カバーの付いていないむき出しのスマホを差し出した。


「はい。インスタとかに載せちゃいますか」


 待ち受けには、青い空の下で風に吹かれながら、きれいな女の人と、頬を寄せ合う幸せそうな俊介の姿がある。


「彼女さんですか? きれいな方ですね」


「妻なんです」


「ああ、奥さん。ご結婚されてたんですね」


「去年、亡くなって……」


「え? あ、あー、ごめんなさい。余計な事訊いちゃって」


 変な汗がじわりと吹き出す。


「いや、いんです。聞いてもらった方が。たまには誰かに話したい時もあって。みんな気遣ってか、妻の話は避けるので」


「そうですよね。聞かれても聞かれなくても、悲しみに変わりはないし、時には思い出して話したい時もありますよね」


 俊介は少し赤くなっている鼻の頭を掻いた。


「なんというかその……。あなたは、とても素敵に笑う方ですね。醸し出す雰囲気が、亡くなった妻にとてもよく似ています」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る