第6話 伝えられなかった言葉

 ずちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ずちゃ、ぐちゃ……ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ……。


 キャベツ、ニラ、豚挽き肉。それから青森県産のニンニクをたっぷり刻んで、ぐちゃぐちゃに混ぜ合わせる。

 明日仕事だとか、誰かに会うとか、誰かとキスするかも、とか。

 そんな事知った事か。


 飛鳥は力任せに餃子の餡を握りつぶした。

 部屋に充満するニンニクと胡椒の匂いが刺激するのは、空腹じゃなく鼻腔。

 時々むせながら、鼻といっしょに涙をすすった。


 拓海の気持ちや、本当のところどうだったのかなんて事はわからない。

 けど、事実。拓海があの女と寝た事には間違いないのだろう。

 やりきれない思いは吐き出す場所すらなくて、視界の先で餃子の餡が歪んでいく。

 勝ち誇った笑いを残して去った、あの女の顔を思い浮かべては、餃子の餡に力を込める。

 ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ……。


 こんな時でも、いい思い出しか浮かんでこない。


 甘くて優しい声。

 適度に温もりをくれる体温。

 昨夜のずれたタイミングに、噛みあわない会話までも既に思い出になろうとしている。


 そうか。

 悪い思い出なんて一つもなかった。

 見ているだけで、同じ空気を吸っているだけで、手を伸ばせば触れる距離にいるだけで、幸せだった。


 ありがとう、さようなら、と言うべきなのだ。


 出来上がった餃子のタネにラップをかけて、冷蔵庫にしまった。


 時刻は11時を少し過ぎたところだ。

 ラフなワンピースからスポーツウェアに着替えて、ジョギングに出かけよう。

 拓海の思い出がずっしりと詰まったこの部屋に一人でいたら、また泣いてしまいそうで――。


 ランニングシューズを履いて、外に出る。

 澄んだ空を仰いで、胸いっぱいに空気を吸い込む。


 拓海が再び飛鳥の前に現れたのは、7年前のちょうどこんな季節。

 突然の再会だった。

 毎日がこんなにもいい天気だったのに、あの日はなぜか土砂降りで、空は荒れていた。


 彼は本来なら高校3年生。卒業を間近に控えた頃のはずだった。


 受験する高校探しに難航はしたが、どうにか地元の定員割れしている私立高校に押し込むようにして受験をすすめ、合格を果たした高校だ。


 あの時の安堵感は今でも鮮明に覚えている。


 それなのに、入学からわずか半年足らずで退学。

 さして問題児というわけでもなかったはずだが、集団生活に馴染めず親子で随分悩んだ末の決断だったそう。


 飛鳥はというと。


 塾の経営者で講師でもあった元夫は、アルバイト講師の女子大生と恋に落ち、駆け落ちした。

 スポーツジムの受付に再就職して、どうにか表向きは起動に乗り始めてはいたが。

 通勤途中にある、かつて、夫と夢を追いかけた場所を通る時は、いつも心臓を握りつぶされるような痛みに耐えなければいけなかった。


 どうにもならない事を思っては、あの場所で何度も涙を流したっけ。


 あの日は、土砂降りの雨が降っていた。

 鼠色のシャッターが降り、貸店舗の張り紙が貼られているその場所に、傘もささず、ずぶ濡れでたたずむ作業着姿の男性が目に付いた。

 

 こちらに振り返った瞬間、息をのんだ。


「塾、なくなった……。俺、また塾に行きたかったのに」

 土砂降りの雨に濡れて、泥んこで汚れたツナギ姿のその青年は、拓海。


 飛鳥は驚き、慌てて傘をさしかけた。

「拓海君? ごめんなさい。塾はもう閉めてしまって、先生ももういないのよ」

 伸びすぎた前髪からのぞいた眼は、絶望を宿し、泣いているようにも見えた。


「もう一度高校受験して、俺もちゃんと卒業したい」


 たった一人の家族だった母親を病気で亡くし、工事現場のアルバイトを首になり、人生に絶望しかけていたのだ。

 かつての同級生が、卒業を目前に充実感に満ち溢れている姿が、拓海にそんな思いを募らせたのだろう。


 拓海にとって、すがる場所はもうここしかなかったのだ。


「うちに来る? 私も一応教員免許持ってるのよ。塾長と結婚するまでは中学の先生だったの。一緒に高校編入目指そうか」


 それが、飛鳥と拓海の暮らしの始まりだった。


 人生に絶望していたのは飛鳥の方だったのかもしれない。

 共有財産は全てもらったが、一番大切なものを失った悲しみは、飛鳥を深く傷つけていた。


 拓海の優しさが飛鳥を癒し、彼の将来が飛鳥の希望になっていった。


 一ヶ月後に控えていた編入試験を見事パス。

 拓海は、夜間に通える定時制高校に入学したと同時に、現在のスポーツジムにアルバイトコーチとして採用された。


 中学卒業後、ライフセーバーの認定試験をパスしていたため、会社は拓海を喜んで採用した。


 家の中では先生と生徒。時には年の離れた姉弟のように仲良くなり、いつしか、甘く溶けていく。


 時々触れ合う指。

 不意に視界をかすめるプライベートゾーン。

 真夏のお風呂上りはよく腰にバスタオル一枚巻いて、扇風機の前で涼んでいたっけ。

 不意ににずり落ちたタオルを慌てて拾って、股間を隠す姿は本当にかわいかった。


「見えた?」


「見えてない」


「嘘、絶対見たよね」


「ちょっとだけ見えた」

 そんな言い合いをしながら、無邪気にじゃれ合ったのは、いつの頃だっただろうか。


「好きな子ができたら、ちゃんと私に教える事! いい?」


「うん。ちゃんと教える」


「飛鳥ちゃんも、ちゃんと俺に教える事!」


「うん。ちゃんと教える」


 毎日飽きずに、そんな会話をしていたある日の事だった。


 その時は、突然訪れたのだ。


「俺、好きな人ができた」

 そう言って、ゆっくりと飛鳥の手を握った。


「初めて女の人を本気で好きになった。飛鳥ちゃんが……好き」

 再会からおよそ半年後の事だった。

 

 あの時に、「私も拓海が好きよ」と言わなかった事を、今とっても後悔している。

 あのタイミング以外に、その言葉を拓海に伝える機会は、訪れなかったのだから。



Episode1【完】

Episode2に続く。

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