第3話 恋人たちが最も盛り上がる日

 ガチャっと玄関の鍵が回ったのは、深夜1時を過ぎた頃だった。

「ただいま」

 という声と共に、玄関で靴を脱ぐ拓海の気配。


 居酒屋を出て、美里と別れて帰宅したのは12時過ぎだった。

 随分お酒が進んだような気がしていたが、お風呂上りの一杯の水で、眠気まですっかり飛んでしまった。

 明日は休みという安心感が余計にベッドを遠ざける。


「おかえり。案外早かったのね」

 リビングに入って来た拓海に声をかけた。


「そう?」

 と、眉を上げ下げしながら、腕のアップルウォッチを確認している。


「あれ? お酒飲んでる?」

 昔から変わらない、おっとりとした口調で美里に微笑む拓海。

 話していると、こちらまでおっとりとした口調になるから不思議だ。


「うん。瀬野せのさんに誘われて居酒屋に行ったの」


 そんなに飲んでないつもりだったけど、匂ったかしら。


「瀬野さん? へぇそう。楽しかった?」


「うん。それなりに。拓海は? 誰とどこで飲んでたの?」


「え?」

 不思議そうな顔をする。

 当然だ。

 今までそんな事訊いた事なかったから。

 どんなに帰りが遅くても、朝帰りしても、必死で干渉しないように耐えていた。


「どうしてそんな顔するの? 訊いちゃいけなかった?」

 飛鳥の問いに、複雑そうに眼を瞬かせる。

 拓海はおもむろにベンチコートを脱ぎ、苦笑を浮かべながら視線を外した。


「いや。そんな事ないけど。珍しいなと思って。酔ってるの?」

 言いながら寝室に入り、クローゼットの扉を開いた。


 あのね、拓海。

 こんな質問、世の恋人たちにとっては当たり前なんだからね。

 拓海の次の恋を憂いて、思わず説教しそうになる。


「ううん。酔ってはないよ。言いたくないなら別に言わなくてもいいけど」


「フィットネスのコーチ達と飲んでた。メンバーは池田さんと、今満さんと、後藤さんと……それから、誰だったっけ?」


「舞香さん?」


 そういうと、一瞬こわばった表情を過らせた。


 少し間を置いて

「ああ、うん。彼女もいたね」


「そっか。楽しかった?」


「仕事の話ばっかりだよ。ボディメイクトレーナーの資格取ろうかなって言ったら、そんなのいらないって言われた。実績で十分だって。シャワー浴びて来る」


 なぜだろう。

 いつも通り、シャワーに行っただけなのに。

 飛鳥には、この問いから逃げているように見えてしまった。


 ジーーーーーー、ジーーーーーーーーーーーとクローゼットからのバイブ音を察知した。

 拓海のベンチコートのポケットからだ。

 拓海の携帯なんて、触った事すらない。

 恐々、音の鳴るポイントに手を差し入れた。

 スクリーンには、LINEメッセージ受信の通知。


『今年の12月23日って土曜日なんだね』


 不意に映し出されたメッセージ冒頭だけで、膝が砕けそうだった。

 飛鳥のメンタルをズタズタに打ち砕くには十分な文言だ。

 1年で最も恋人たちが盛り上がる夜。イブ前夜。

 メッセージの送信主は『藤野舞香』


 クリスマスは毎年23日に、この部屋で祝ってきた。

 有名店にも負けないほどのコース料理を並べ、ケーキだって手作りした。

 プレゼントは後々拓海の重荷になるといけないからと、あげた事がない。

 気持ちを形にするのが怖かったのだ。

 いつか捨てられる事になる物に、思いを込める事が。


 その点、料理はいい。

 食べてしまったらそれで終わり。

 決して捨て去る事のできない記憶になって、いつか思い出してくれる日が来るかもしれないのだから。

 コストと、手間暇をかけた料理をプレゼント代わりにしてきた。


 人目を気にする飛鳥を気遣ってか、拓海は飛鳥の敷いたレールを何も言わず歩いて来てくれた。

 キャンドルに照らされた料理に目を見開いて、最後の一口まで「死ぬほどおいしい」と喜んで食べてくれて――。


 鮮やかなイルミネーションに彩られたイブの街は、未来ある恋人たちの物。

 そんな場所で、好奇の目に晒されるのだけはまっぴらだった。

 親子? 姉弟? ママ活? まさか恋人同士じゃないよね。 

 なんであの男にこの女?

 そんな目で見られるのだけは――。


 大人びたボディソープの香りと共に、拓海がリビングに入る気配を感じた。

 慌てて携帯をポケットに戻し、寝室を出た。


 肩にかけたタオルで濡れた髪をゴシゴシと拭う拓海。


「今年のクリスマスはどうしようか?」

 今にも上ずりそうな声で訊ねてみた。


「うーん……」

 とても難しい質問をされたみたいに、一点を見つめながら髪を拭いている。

 チェストの上の卓上カレンダーを持ち上げてこう言った。


「今年のクリスマスイブは、日曜日なんだね」


「そうね。前日の土曜日にパーティやる? 二人で」


「うん。そうだね。いつも通りだね」


「そうね。どこか出かけたい?」


「ううん。別にそんな事ないよ」


 カレンダーを元の位置に丁寧に戻して、飛鳥の顔を見遣る。


「また伊勢海老のグラタンが食べたいな」


「うん。作ってあげる。いい伊勢海老が入ればいいんだけど」


「もちもちのでっかい餃子も食べたい」


「それはいつでも作ってあげる」


「手作りのコーンスープに、サーモンのサラダ」


「拓海、好きだよね。コーンスープ」


「飛鳥のコーンスープ、甘くて美味しいから、好き」


 こんなありきたりの会話も、もうすぐ終わるのかと思うと愛おしくてたまらない。

 体に染みついているカルキと夜風が混ざったような、独特な匂いが好きだった。

 天然のウェーブがかかった柔らかい髪も、瞳に影を落とす長いまつ毛も、いつまでも大人びない笑顔も、鼻にかかった甘い声も。

 何もかも他の人の物になってしまうのかと思うと、体の芯から大切な器官を抜き取られるかのような痛みが走る。

 痛くて、怖くて、苦しい……。

 涙交じりの呼吸が肺を焼くほど熱い。


 思わずその場にしゃがみ込み、口を覆った。

 無理に呼吸を止めなければ、涙がこぼれそうで。


「飛鳥? 飛鳥ちゃん? どうしたの? 大丈夫?」


 拓海はその場に立ち尽くしている。


「飛鳥ちゃん」という響きが懐かしくて、こらえきれない涙が一筋、頬を伝った。


 視界に映り込んだ指の長い足先が、徐々に歪んで見えなくなっていった。

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