第2話 同僚と友情が芽生えた日

 繁華街のど真ん中に位置する赤ちょうちん。

 スーツ姿のサラリーマンで、ごみごみと込み合う店内を見まわして、今日が金曜日だと言う事を実感する。


 先ほどからすごい勢いで、ジョッキの生ビールを体内に収めている美里は、顔色一つ変えず、いつもの調子で楽しそうに喋っている。

 クルクルと表情を変えながら、枝豆に焼き鳥。サラダをつまみながら。

 気持ちいいぐらいの食欲を見せつける。


 彼女の話題の多くは家庭内の愚痴であったり、職場に対する不満。

 どれが「相談」なのか、「訊きたい事」なのか、今の所よくわからないが。

 飛鳥自身も酒の力で、愛想よく相槌を打てるぐらいには上機嫌である。


「あすかさ……、あ、すいません。柊さん」

 美里はつい口が滑ったとでも言いたげに、クリームパンみたいな手を口元に当てた。

「あ、いいのよ。お酒入ってるときぐらい、下の名前で呼んでくれたら嬉しい。仕事も年齢も忘れて、楽しく飲みましょう」


 その言葉は満更方便でもない。

「40過ぎると、下の名前で呼び合える友達なんてなかなかできないから」


 胸の奥が少しだけくすぐったい。


「じゃあ、飛鳥さん」

「はい。美里ちゃん」

 顔を見合わせてクスクスと笑う。


「飛鳥さんとは、あんまりプライベートな話したことなかったですよね?」


 そうね。こうして差し飲みするのも初めてじゃない? 私、基本的に職場の人と個人的に飲みに行ったりしないから」


「そうなんですね。私はけっこう行きますよ。旦那の出張が月イチぐらいであるんで。この前も……、あ、いや……」


「え? なに?」

 またまた口が滑ったようだ。

 今度は肩をすくめて大げさに首を横に振った。


「そう言えば、訊きたい事があるって。あれってなんだったの?」


 気まずそうな雰囲気のまま、美里は一口ジョッキに口を付けると、重そうに口を開いた。


「拓海さんと、舞香さんの事なんですけど」


「え?」


「二人って付き合ってるじゃないですかぁ」


 血の気と共に、酔いが醒めていくのを感じた。


「へぇ、そうなんだ」


 胸の内とは裏腹に、驚くほど冷静に返答できた。


「本人から聞いたの?」

「いえ、コーチ陣の中で噂になってるみたいで。舞香さんが拓海さんと付き合ってる……みたいな事を言ってたそうで……」


「それって付き合ってるつもり、とかじゃなくて?」


「いやぁ、そ、れは……」


 美里は自信なさげに首を傾げた。


 きっと彼女の勘違いに決まっている。

 一度寝たぐらいで付き合ってるだなんて。


 10年前。まだ中学3年生だった拓海の、屈託のない笑顔を思い出し、ジョッキを握りしめた。

 半分ほど残っているビールを勢いよく喉の奥へ流し込む。


「で? 二人が付き合ってたら何なの?」

 できるだけ冷静に、優しい口調で訊いた。


「シフトをずらした方がいいか、それとも揃えてあげた方がいいか、どっちがいいと思いますか?」


 どうでもいい。


「まだ、拓海さんの方に確認してないんでしょ? 彼女の思い違いかもしれないし、今まで通りでいいんじゃないかしら?」


「そう、です、よね」


 そして、美里はまた気まずそうに微笑んで、枝豆を口の中に放り込んだ。


「なに? まだ何かあるの? なんだか歯切れ悪いじゃない?」


 美里はおしぼりで指先を拭うと、改まった様子で45度ほど体の向きを変えて、中途半端に向き合った。


「もしかして……あの、間違ってたらごめんなさい」


「何よ?」

 飛鳥も焼き鳥をつまもうとして動きを止める。

「拓海さんて、飛鳥さんの紹介でうちのジムのインストラクターになったんですよね?」


「ええ、そう、だったわね」


「もしかして、飛鳥さんと拓海さんって、付き合ってたりします?」


「…………」


「あは、やっぱり」


「何? 何も言ってないでしょ」


「顔とか態度見てたらわかりますよ。誰にも言わないんで私にだけ本当の事話してくださいよ」


 急に砕けた感じで、美里は飛鳥に軽く体当たりした。


 酔いが一気に回ったせいだろうか? その温もりと柔らかさに、つい張り裂けそうな感情を委ねたくなった。


「本当に。誰にも、言わないで」


 それだけ言うと、急激に下瞼が熱くなり鼻の奥がツンと湿り気を帯びる。


「絶対に言いません。っていうか、今日の事、全部忘れます! だから、何でも話してください!」


 人前であるとか、お化粧が崩れるとか、急にそんな事がどうでもよくなって、使い倒したおしぼりの中に顔をうずめた。

 ずっと一人で抱えていたものがほんの少しだけ軽くなった気がして、素直に嬉しかった。


「けっこう、長いんですか?」

 色々と端折ってるが言いたい事はわかる。


「そうね。知り合ってからは10年だけど、そういう関係になったのは7年前ね。彼は18だった」


「へぇ、けっこう長いんですね」


 拓海は10年前、個別指導塾を経営していた元夫の教え子だった。

 通常の学習塾には着いていけない、いわゆる落ちこぼれの最後の砦となっていた塾だ。

 飛鳥もその塾で、事務作業や雑用などの他に、生徒のケアも引き受けていた。


 拓海は特に勉強が酷く苦手で、5分ほどで集中力が途切れてしまい、放って置くとすぐに意識がどこか違う所へ飛んで行ってしまうのだ。

「小さい頃から落ち着きのない子で」と拓海の母親がいつも嘆いていたのを思い出す。

「ちゃんと話聞いてる?」そんな講師の言葉は、いつも拓海を学びから遠ざけた。


 子供がいない飛鳥にとって、人一倍手のかかる拓海は子供のようにかわいく思え、特別な存在になっていった。

 もっとも、それは当然恋愛感情などとは程遠い、愛着のような物だった。


 母子家庭で育ったせいか、拓海は他人の心の機微に敏感だった。

 いつも通りにしているつもりでも

「飛鳥先生、どうして泣いてるの?」

 なんて心配そうな表情を見せる。

 澄んだ眼で、心の中を見透かすように――。

 あの時、泣いていたのは心だった。

 涙なんて一滴もこぼしてはいなかったのに――。


「っていうかあのー」

 美里は再び、言いにくそうに口を開いた。


「なに?」


「こういう事訊いていいかわからないんですけど、どうして結婚しなかったんですか? そんなに長い事一緒に暮らしてて」


「結婚? できるわけないじゃない。私はバツイチで子供も今となってはもう難しい。彼はまだこれからの人よ」


「年の差を気にしてるんですか?」


「当然でしょ。彼に素敵な人が現れたら、いつでもきれいに身を引くつもりよ。彼の幸せが一番。喜んで祝福するわ」


 あの日からずっと、自分にそう言い聞かせて来た。

 みっともない執着なんてしない。


 それなのに、涙が頬を伝うのはどうしてだろう……。

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