君の背中が思い出に変わるまで

神楽耶 夏輝

Episode1 年下の彼

第1話 彼の背中に浮気の痕跡

 スポーツジムに豪奢なクリスマスツリーが登場した。

 大規模な室内プールを備えたスポーツジムのエントランスは、年中生暖かくカルキ臭い湿気を帯びる。

 大きなガラス窓は結露を滴らせ、外は随分冷え込んでいる事を伝えていた。


 ひいらぎ飛鳥あすかは、もうそんな時期か、とカウンターの中からため息を吐いた。

 受付事務の飛鳥にとっては、師走といえど通常運転だ。それなのに得たいの知れない憂鬱が襲って来る。


 館内のスピーカーから流れる穏やかなクリスマスソングに、しばし意識を委ね、現実逃避を試みる。

 クリアな照明に照らされた白銀のツリーはどこか嘘くさいのに、胸が弾んでしまうのは年甲斐もないだろうか。


「すごぉい、きれいですね。なんだかワクワクしちゃいますぅ」

 背後から、このツリーぐらいわざとらしいセリフが聞こえたと同時に、机の上に一枚の書類が滑ってきた。

「おねがいしまぁす」

 来年のシフト希望票。上部に『藤野ふじの舞香まいか』という、まとまりのない丸文字が躍っている。

 振り返ると、ユニフォームのスポーツウェアに着替えた藤野舞香本人。

 グーに握った両手をあごの下に揃えて瞳をキラキラさせている。

 その仕草に、21歳という若さを加味しても、なんだか不快な気分になってしまう狭量な自分が情けなくなる。


 その隣には、拓海たくみ――。

 頭一つ分、彼女より長身な彼も白銀のツリーの前で子供のような表情を見せている。


「あら、そう? 街にはもう素敵なツリーがたくさん飾られてるじゃない」


「あれ? そうでしたっけ? なぁんでだろ? 職場のツリーがこんなに素敵に見えるのはなぁぜなぁぜ?」


 舞香は拓海の顔を覗き込む。

 意味がわかってるのかわかってないのか、拓海は惚けた顔で小首をかしげた。


「いいわね。若い人たちは。作り物のツリー見てるだけでロマンティックになれて」


 飛鳥の科白など、舞香は気にも留めない。


「拓海せぇんぱいっ。プールサイドチェックしに行きましょう?」

「あ、ああ、はい。行きましょう」


 二人はこのジム内にあるスイミングスクールのインストラクターだ。

 スイミングスクールに通って来る子供たちは、彼らの事を「コーチ」と呼ぶ。


 プールの方に二人並んで歩いて行く後ろ姿を、飛鳥は複雑な気持ちで眺めていた。

 ジャージ越しにもわかる均整の取れた逆三角形の美しい体。

 互い違いの肩を並べて歩く姿は、あのままCMポスターにでもできそうなほど自然体で世間に馴染んでいる。


 少し茶色く染めたツーブロックヘアーは飛鳥が好きな韓流スターを真似た物だ。

 その髪をくしゃっとかき上げた拓海は、何かを思い出したようにふと立ち止まり、こちらに戻って来た。


 舞香はその場で立ち止まり、こちらに視線を向ける。

 正確には拓海を見ているのだ。


 飛鳥はシフト票をパソコンに打ち込みながら

「どうしたの?」

 モニターに視線を向けたまま拓海に問いかけた。


「今夜も遅くなる。ご飯もいらないし、先に寝てて」


 小さな声で周囲を気にしながら。それだけ伝えると踵を返し、足早に舞香の方へと去って行った。


 坂口拓海、25歳。

 16歳年下の、飛鳥の恋人である。


 恋人というと、少し語弊があるかもしれない。

 かと言って、セフレと呼ぶにはあまりにも報われない。

 束縛しあわない、恋人同士。

 未来のない恋人同士であり、同居人である。


 拓海と初めて出会ったのは10年前。

 彼が飛鳥のマンションに転がり込んで来たのは、7年前だ。


 あれからもう10年。

 随分大人になったなー、なんて言葉がつい口から漏れ出てしまいそうで、慌てて飲み込んだ。

 二人の関係は、世間には絶対に秘密にしなければならない。

 なぜなら、この恋に未来はないからだ。


『たくみせんぱいは私のものです』

 その文字を彼の背中に見つけたのは今朝の事。

 裸のままベッドから先に抜け出し、洗面所に向かう彼の背中。

 昨夜遅くに帰って来た彼は、シャワーも浴びずに服だけ脱いですぐに飛鳥の隣に潜り込み寝息を立てた。

 淡い常夜灯の下で、その文字に気づかなかった飛鳥は、いつも通りの温もりに安心して眠りについたのだ。


 サインペンで書かれたまとまりのない丸文字は、飛鳥に終焉を見せつけた。


 自分ではない別の女と艶めかしく体を重ねる拓海の姿が、生々しく脳内に映し出される。


 セックスの後、彼は現実を全てシャットアウトするかのように、うつ伏せで寝入ってしまう。いつも必ず……。

 枕を抱くようにして寝落ちした、彼のむき出しの背中に、きっとあの女が書いたに違いない。


 机の上のシフト票の文字を見ながら、下唇をぎゅっと噛んだ。


 タイピングする指に力が入る。

 無駄に大きく鳴り響くタイピング音は、まるでイラついているみたいじゃない。

 やだやだ。そんなわけない。

 来るべき時が来ただけ。

 始めからわかっていた事なのだから。


「柊さん、今夜って暇ですか?」

 同じ受付事務の同僚、瀬野せの美里みさとが声をかけてきた。

 普通、人の都合を問う時は、「忙しい?」と訊くものではなかろうか?

「暇?」と訊いてくる失礼な同僚に振り返り、飛鳥は答えた。


「暇ではないけど、忙しくもない、かな」


 美里は丸眼鏡の向こうで、くしゃっと目を三日月形に細めて喜んだ。


「今日、旦那が急に出張になって、独身なんですよねー。飲み行きません?」


 そういう誘いなら大歓迎だ。

 つい今しがた、飛鳥も独り身のつまらない夜が確定したのだから。


「いいけど、二人で?」

 職場の飲み会で一緒に飲む程度の同僚だ。

 しかも彼女は確か30台半ば。

 2年ほど前に結婚して、子供はなし。

 さして接点もない彼女が、なぜ誘って来るのか少し引っかかる。


「はい。柊さんにちょっと相談というか、訊きたい事があって」

 含みを持たせた笑み。


「訊きたい事?」


「あ、そんな大した事ではないです。なんて言うか、ちょっと小耳に挟んじゃったっていうか……」


 心臓がグツっと嫌な音を立てた。


 拓海との事が、職場で噂になっていたりするのだろうか?

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