07 あなたのせいじゃない

 孫の無事に、老人はたいそう感謝をした。


 クラーナは少し居心地が悪くなるくらいだった。何しろ、彼――もちろん、いまは「彼」だ――何もしていないも同然。クラーナがコトを救出にいかなくてもオルエンは少年を助けただろうし、町にくらいは連れて行ってやったはずだ。


 ただ、とクラーナは思った。それまで老人は、身体に悪いくらい心配をするだろうし、母を惑わした魔術師――ではないのだが――に守られたという思いは、リアーの息子にますます影を落とすかもしれなかった。それを思えば、彼の奔走も無駄ではない。


「朝には、普通に眠っていたのと同じように、目を覚ましますよ」


 彼は確約した。オルエンの言葉を繰り返しただけであるが、クラーナは伝書ルワクの役割を果たしたつもりはなかった。彼はもはやオルエンを信じ、彼の言葉に嘘はないと思いはじめていた。


 「砂漠」云々は、まだ別であるが。


「リアーは、いいお母さんだったんでしょうね」


 クラーナは少年の傍を優しく舞った黒い蝶を思い出していた。あれが死んだ母親の魂でなかったとしても、愛撫のような飛翔を感じてコトが母の腕に安らぐ夢でも見ているとよい、などと思った。


「どうだろうな」


 デンは言ったが、それはクラーナの言を否定するというのではなかった。


「私は、娘がどんな母であったか、知らなかった」


 その表情にはつらい色が混じった。祭りで聞いた話を思い出す。デンはリアーを勘当したと。


「小さな町なのに、娘さんと会うことをしなかったのですか」


 責める口調にならないように気遣いながら、詩人は尋ねた。


「酷い父親だと思うかな。娘の苦労にかまわなかったと」


「いえ」


 クラーナは首を振る。


「何か事情があったのでしょう」


 質問ではなかった。デンは、ただそれにうなずくなり首を振るなり、そうするだけでよかった。反応をしなくても。


 しかし老人は答えた。


「私は、余所者なんだ」


 彼は言った。


「若い頃に遠い街からやってきた。愛する女性との結婚を反対され――若さに任せて、駆け落ちをしたんだ」


 老人はそう口にし、クラーナは驚きを隠せなかった。彼はまだ若く、時間の力を知らずにいた。この物静かな老人から、そのような若き情熱が思い描けなかったのだ。


「幸せだったが、後ろめたい気持ちもあった」


 デンは淡々と語った。


「誰からも祝福されない結びつき。妻となったメランナはそれでもかまわないと言ったが、時折、故郷を懐かしむようなことは言っていた」


 リアーは遅くにできた子だ、とその父は言った。


「私たちは、あの子をサルフェンの娘にしたかった。余所者を受け入れてくれた町の。だがリアーはほかの町の男を愛した」


 それが許せなかったのだろか? 違う町の男を愛するのは、サルフェンを裏切る行為だとでも? クラーナは話がよく判らず、黙って聞いた。


「メランナが、言っていた。娘は、自分がしたように、愛する男について町を出て行くのではないかと。妻は血筋だと言って笑ったが、私はそのことを考えればはらわたが煮えくり返った。男親の感傷だ。見知らぬ男に娘を奪われれば腹立たしいというような」


 デンは少し笑った。


「リアーと私は、よく喧嘩をした。それはメランナにつらい思いをさせ、彼女は心労からか、病を得て急逝した」


 クラーナははっとなって哀悼の仕草をした。デンは返礼をする。昼間から二度目のやりとりだ、と思うと心臓が苦しくなるような痛みを覚えた。身内を失って哀しむのはデンであってクラーナではないが、詩人というものは、人の感情をみんな我がことのように受け入れてしまうところがある。


「そんな折にリアーは子を孕み、男と別れた。私はね、クラーナ殿。悪いことが起きたのは全て自分のせいだと感じたのだよ。メランナを連れ出し、リアーにサルフェンを押し付け、娘の愛に反対して妻に気苦労を負わせ、妻を亡くした父を気遣ったリアーは、男の誘いを断って捨てられた」


「そんなこと」


 クラーナは口を挟んだ。


「何も、何ひとつ、あなたのせいじゃない」


「人はみな、そう言う。だが、自分が全ての元凶であるように感じてしまうと、なかなかそれから抜けられないものだ。リアーは私の近くにいない方がいいと思った。互いにつらい思いをすると」


「そんなこと……なかったでしょうに」


「かもしれん。だが、私は、リアーが心を変えて――それとも男が心を変えて、コトと三人、親子で幸せに暮らしてほしいとも望んだのだ。私と住んでいれば、リアーはサルフェンを出ないだろうと思った。理不尽な父に腹を立てて、出ていってくれてもいいと」


 何だか複雑な心情だ、と詩人は聞いていた。愛する故に突き放す。


 彼はさまざまな物語を歌うたび、さまざまな感情を知る。だがそれはあくまでも疑似体験であって、彼自身の経験ではない。クラーナは駆け落ちをしたこともなければ、子供を持ったこともないし、年を重ねて過去を振り返ることも――まだ当分は、ないだろう。


「いったいどこで自分は誤ったのだろう、と思うことがある」


 デンは言った。


「メランナを愛したことから間違いであったとは、思いたくない」


「当たり前です」


 詩人はきっぱりと言った。


「愛し愛されることに、どんな間違いがあるもんですか」


「そうだな」


 老人は詩人の言葉、それも、とても若い言葉に笑いを洩らすようなことはせず、うなずいた。


「そうしていなければ、私はリアーに出会えなかった。私がこの町を選ばなければ、娘は毒の花などに倒れなかったかもしれないが、リアーが森で恋をしなければ、私はコトに出会えなかった」


 もしも魔術師が聞いていれば、それらは全て運命の為せる業だとでも、口走ったかもしれない。


 人の目には見えぬ。神の織る布の細糸。それが実在するものか幻かはともかく、白髪の魔術師はそれを感じ取る。若い詩人は、そうではない。


「今日が在ることに、間違いなんか、あるものですか」


 ただ彼はそう言った。老人はそれには何も答えなかった。


「済まなかったな。祭りの時間ときを別な事情に使わせた」


 デンは、つい沈んでいた口調を悔やみでもしたか、不意にそれを陽気なものに変えた。


「まだ深の刻を回らない。吟遊詩人殿を望む声も高かろう。お疲れでなければ戻られてはどうか」


「……そう、ですね」


 クラーナは考えた。


「もう少し、したら」


 言いながら詩人は、この家に預けていた弦楽器フラットを手に取った。


「僕は、見ましたよ」


 そっと彼は言った。


「見たんです。黄金の花畑。精霊の踊り。聞いてもらえませんか。いまのあなたに、いまの僕の歌を」


 老人は少し驚いた顔をして、それから、嬉しそうにうなずいた。

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