05 君も同じように
「魔物?」
クラーナは嫌そうに繰り返した。
「この美しい光景の前で、さっきの嫌な思い出を蘇らせてくれて有難う。意地悪をしてるのかい?」
「何を言っとる。獣人のような生き物の話ではない。私が是非に見てみたいと思っている、ジャファラールのことだ」
「何だって?」
聞いたことのある言葉のような気がした。そう言えば、以前に宿の部屋でオルエンが口にしていたし、先にもそんなことを言っていたようだ、と思い出す。
あのときは、問い返せばうるさいと言われた。だがこのとき、魔術師は説明する気分でいるようだった。それはだな、と続く。
「クリエランの香りを好む、幽体のような魔物だ。花の咲く夜に現れることがあるらしいが、今宵はおらんようだな。もっとも彼らは人間を好まぬ故、こうして堂々とこのささやかな花畑の脇に立っていては、顔を見せんだろう」
「……ちょっと待って」
クラーナは片手を上げた。
「君は、幽体のような魔物とかが、歌を作ったって言うのかい?」
「知らん。ジャファラールには明らかに知性があるが、歌というような文化を持っているかは判らん。だいたい、人間と同じ言葉を喋るのかどうかも。歌を作ったのは私のような術を持っていた魔術師かもしれん。だが、ジャファラールの作ったものが人間に伝わったとなれば、これは非常に面白い」
「僕は、何がどう面白いものか、よく判らないね」
「であろうな」
気にしないようにオルエンは肩をすくめた。
「でも、判ったこともあるよ」
詩人は小さく呟いた。
「それじゃ君は僕を連れたために、一年に一度の機会を棒に振った訳だ。君だけなら
その台詞に、魔術師は肩をすくめた。
「何か気遣いをしているのなら、不要だぞ。この日にジャファラールを見られぬのならば、それが定めと言うだけのこと。来年に機会があるやもしれんし、そうでないやもしれん。再来年になるやも。その機会はないやもしれん。いずれにせよ、未来は未来。今日は今日」
「未来は未来――今日は今日、か」
道の先に何が待っているのかは判らない。リ・ガンという存在の使命についても、クラーナはまるで本を読んだように理解しているだけで、心から全て納得して翡翠のために一年間を費やすと決意している訳でもなかった。ただ、夢のなかではなく、直接に、オルエンが「女王」と表現したあの存在に出会えば――「会う」というのかはよく判らなかったが――、先の〈鍵〉への確信のように腑に落ちるのだろうという思いはある。
それは「思っている」というより「判っている」ことと言えたが、詩人は神秘を歌えども自らの経験はまだ浅い。自身の感覚を掴み損ねることもあった。
「今日があるからこそ、未来もある……か」
詩人は詩人らしく詩的な言い方をするにとどめた。魔術師が魔術師の理で何を思ったとしても、オルエンは何も言わなかった。
そうして彼らが人の関知できぬ定めの鎖について思いを巡らせ、話をする間も、夜色の羽根を持った蝶は輝く花畑を行きつ戻りつ、ふらふらとしていた。
「何て、幻想的なんだろう」
詩人は小さく声を出した。静寂を破りたくはなかったけれど、言わずにはいられなかった。
「町の人たちがこれを見られないなんて、何だかもったいない」
「クリエランは二種、存在する」
オルエンは言った。
「こうして満月の夜に花を咲かす種類がひとつ。こちらは、夜が明ける頃にはしおれてしまう。もう一種は、幾日か咲き続ける」
「何だって?」
「数は極端に少ない。おそらく、突然変異のようなものだろう。それは毒の香りを発さず、摘めば花は散ってしまうが、その花弁は海で採れる稀少な光貝のように美しく、難病に効く薬を作れるのだとか。それを探す薬草師に出会ったことがある」
「じゃあ、毒に倒れずに花を見ることはできる、ということ?」
「花の数はわずかだがな。だが、いまのサルフェンの町びとはやらんだろう。毒への畏れが強すぎる。過去にはその事実を知っていたのだろう。そのため、クリエランを根絶させていないのだ。よい稼ぎになったはずだからな。だがいつしかその知識は失われ、畏れだけが残った」
「それなら、教えてあげたら、どうかな」
クラーナは提案したが、オルエンは首を振った。
「もう遅い。彼らはそれを禁忌としている。それに、いつかその技がサルフェンに還ることがあるとして、しかしそれをもたらすのは我が役割ではない。町の人間か、それを探してやってきた人間であるべきだ」
「未来に託す、という辺り?」
「巧いことを言うな。その辺りだ」
「じゃあ」
彼女は繰り返して、考えた。
「あの歌を作ったのは魔術師でも魔物でもなくて、過去にその二種類目の花を見た人かもしれないね」
「そうは思えん」
魔術師は返した。
「あの黒蝶はどうだ」
「どうって……蝶だろう、ただの」
「そう思うのか?」
見ていろ、とオルエンは言った。訝りながらもクラーナはそれに従う。
しばらくすると蝶はふと、その甘い香りよりもほかに心を奪うものを見つけたかのように、クリエランのもとをふうわりと去った。
静かに羽ばたくものをじっと視線で追っていた詩人は、軌跡の向こうに、眠り込む子供を見つけた。
「コト」
彼女は小さく子供の名を呼んだ。
蝶は、少年がクリエランよりも魅惑的な香りを放っているとでも言うように、コトの頭から肩から、子供が目覚めて悪戯心に捕えようとすれば容易になるような指先から、全身の周辺を触れんばかりに飛び、しかし決して触れることなく、舞い飛んだ。
優しい、それは愛撫のような。
けれど、触れ合いたいのに触れられぬような、哀しみも感じられた。
「まるで」
詩人は押さえた声で呟いた。
「『カナサイ』……ああ、違う、何だっけ」
「『カナイェザイ』だ」
正しく即答した連れに、クラーナは驚いてオルエンを見た。
「戯曲に通じてることはともかく、君も同じように思ったと?」
「夢でラ・ムール河を訪れても、愛しき恋人と手は触れ合えん。目を覚まし、伸ばした手のわずか一ファイン先にいた恋人を思えば、覚えのある香りがする。見れば、開けたままの窓から蝶が去っていくところだった」
オルエンは「カナイェザイ」の一節を語った。それはぶっきらぼうな解説のようであったのに、クラーナはオルエンの言葉にどこか音楽的な響きを感じた。一度だけ見た舞台が、クラーナ自身の豊かな想像をつけ加えて、鮮やかに心に蘇る。
何となく、感じる。この男はよりによって「歌などはくだらない」などと言ったけれど、歌が嫌いな訳ではない。見た戯曲の内容を正確に覚えているのは、何でも覚えたがる魔術師の癖のためでもあるまい。
黒い蝶は去り難いというようにコトに近づいては遠ざかり、遠ざかれば近づくことを繰り返していた。クラーナは「カナイェザイ」を思い出し、コトの事情を思い出しながらそれを見守っていた。
それから何
「お前は魔術師ではない故、気づかぬも致し方ないが」
十
「飛ぶもの、即ち宙に浮くもの、浮遊するものと言うのは、精神の象徴とする考えがある。……何だ、不満そうだな。意味が判らんか」
「判るよ、君の言いたいことは。それで、僕が言いたいのはね、もう少しきれいな言い様はないのかいってことだよ」
「心が風に惑うとか、魂がさまようだとか」
「……その辺りは任せる」
魔術師は肩をすくめた。詩人は黙る。
あの黒い蝶がリアーの化身であったかは判らない。そうであることが、喜ばしいことかどうかも。
と言うのも、彼女はいまやラ・ムールの大河を越え、コズディムの裁きの列に並んでいなくてはおかしいのだ。地上にとどまるのは罪の証だとも取れる。
だが。
「……神様が特別に、彼ら母子を会わせてくれた、というのはどうかな」
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