04 少しずつ

「で」


 改めて詩人は、魔術師をじろりと見た。


「コトはどこにいるの」


「森のなかで休んでおる。おっと、そう睨むな。誤解をするなと言っとるだろう。きちんと、危険のないようにしてある」


 両手を上げる魔術師を詩人はやはり胡乱そうに見た。


「連れてきてやろう」


「僕が行く」


 クラーナはすぐさま言い、オルエンは片眉を上げる。


「信用ならんと?」


「そうは言わないさ。何だかんだ言っても助けてくれたんだろ。さっきは獣人から僕を。その前には花の香りから、コトを」


 吟遊詩人は感謝の仕草をする。オルエンは特に何も答えず、肩をすくめた。クラーナはそれに少し笑んで、ただ、と続けた。


「君が子供の抱き方なんて知らないことに、弦楽器フラットを賭けてもいいと思うだけだよ」


 オルエンは片頬を歪め、その賭けはお前の勝ちだ、と言った。




 少し迷ったが、そのままの身体で同行することにした。


 と言うのも、この姿の方が「人間を眠らせる」毒に耐性を持つような気がしたからだ。


「だが、本当に効かないかどうかは判るまい」


「君が言ったんじゃないか」


「そのようなこともあるかもしれん、というだけだ。死にたいなら、来年が過ぎてからにしておけ」


 それに何か反論しようとすると、遮るかのようにオルエンは片手を上げた。いや、クラーナの言葉を遮ろうとしたのではない。彼が奇妙な形に指を動かすと、クラーナはふっと周囲の空気が変わるのを感じた。


「……何」


「私自身にかけているのと同じ術だ。身の周りの風を入れ換えておる。問題の香りの届かぬ、森の反対側とな」


「それじゃこれは、森の空気」


 魔術師が行える魔術について驚くよりも先に、クラーナは清涼な空気を吸い込んだ。


「ああ、爽やかだ」


「であろう」


 珍しくも満足そうに、オルエンが言った。


「木々はよい。砂漠の暮らしも悪くはないが、爽やかな空気というものとは無縁でな」


「また、砂漠」


 クラーナは苦笑した。ずいぶんと気に入りの冗談らしい。


「訪れたことはなかろうな」


「そりゃあね」


「では、東国はどうだ」


「東国の外れ、くらいになら行ったかな。空気が乾いていて、詩人の喉には向かないと思ったよ」


「成程。あの辺りではあまり詩人を見ないと思っていたが、そういう理由か」


 これは現実味のある台詞だった。実際には東国のどこかで暮らしているのかもしれないな、とクラーナは予測をつけた。


 月夜の森に向かって、どうということのない話をしながら歩いていると――傍から見ればそれは、男女の逢い引きラウンのようであっただろう。


 それはクラーナの採っている女性の外見のためだけではなく、まるで本当に、初めてのラウンのようであった。


 少しずつ語り合い、少しずつ知り合う。


 不思議な力で強烈に結び合わされていても、彼らは互いのことを知らない。どこで生まれ、どんなふうに育ち、どんなことを考えるのか。


 と言っても、そのようなことを直接的に語り合ったのでもない。


 ただ、話をする。そうして、少しずつ知っていく。この世ならぬ力によるものではなく、人の世の、ごく普通の、絆を育む。


 オルエンの言うことは相変わらず曖昧であったが、それはクラーナを騙そうとか、煙に巻こうという意図によるのではなく、生来のもののようだった。言葉の端々にはやはりむっとしたり、呆れたり、いろいろであったけれど、この相手と一年間やっていけるのだろうかという心配は少しずつ消えていくようだった。


 これは、人の心を穏やかにさせる夜の女神ナーネミア・ルーの神秘によるのか、はたまた、先に感じた、疑いようのない翡翠の女神の神秘のためだったか。


 前者の方がいいな、とクラーナは思った。リ・ガンと〈鍵〉という不思議な運命も悪くないが、そればかりに頼りたくない。


「森へ入れば、すぐそこだ」


 目的地が間近になると、魔術師は指を差すようにして言った。それは麦に似た植物クリエランが生息している場所という意味にも、コト少年が眠っている場所という意味にも取れた。或いは、両方であるのかもしれない。クラーナはうなずいてオルエンに続き、木々の間に足を踏み入れた。


 そこにはもう、甘い匂いが強く漂っていることだろう。「風を入れ換える」術とやらのおかげでクラーナはそれを嗅がなかったが、空気はどこかぬるく感じ、その香りに景色が霞んでいるような気分にさえなっていた。


「そこだ」


 指し示されて目を向けた場所に――詩人は息を呑んだ。


 輝いている。


 月の光を遮る樹木の下で、それはまるで、地上の月のような。


(黄金の精霊)


 広場で聴いた歌がすぐに蘇った。


 ほんの小さな一角、全長は長い方で二ラクトあるかどうか、短い方でその半分にも及ぶまい。そこに、クリエランが群生していた。


 薄茶色い茎は、確かに麦に似ている。目立つとは言い難い。ただ通りがかったら、何か特別な植物だと思うこともなく、気づくことすらないままで通り過ぎてしまうだろう。


 しかしそれは、花の咲かぬ日であればのこと。


 黄金の花。


 小さな、子供の爪ほどの小さな金色の花が穂先に集まり、無数に開いている。いや、開き出している。


「ちょうど、咲き出している。よい時間帯にきたな」


 連れの言葉を詩人はぼんやりと聞いた。ぱちん、ぱちん、と音がして――いや、実際には音などしていない。だが、細かな花弁がさやを弾く種のように開いていく様は、そう、小さな精霊が踊るかのようだった。


「黄金の――精霊」


 彼女はほとんど無意識で、聞き覚えた〈月の花〉を口ずさんだ。この高い声は自分では少し奇妙だったけれど、この歌にはよく合っているような気がした。


 ひとつ、ふたつ、みっつ。満ちきた月の、花開く。


 ひとつ、ふたつ、みっつ。甘い香りの、花開く。


「舞うは黒金の影――見れば闇夜に……結ばるる」


 黒金?


 クラーナは、歌い終えて首を傾げた。


 「黒」の要素がどこに? 夜の比喩であろうか。だが、「闇夜」という言葉はすぐそのあとに出てくる。強調しただけだろうか?


 知らぬ作り手の心を思い、少し考えた、そのときだった。


 はっとクラーナは左の方を見やる。


(何か――飛んだ?)


(黒い)


(……蝶)


 どこからか現れた黒羽の蝶が、黄金の花にたどり着くと、その上を飛び舞った。それは幻想的な光景で、どうしてか――哀しい思いがした。クラーナはそっと、自身の心臓の上に手を置いた。


「ふむ、黒蝶か」


 オルエンが呟いた。


「黒金の影、とな。その歌を作ったのは誰だ?」


「知らないよ。昔の、サルフェンの人だろうさ」


「ふん? 気づかぬのか。この状景を見ると言うことは、毒の香りを吸うということだぞ」


 その指摘にクラーナは目をしばたたいた。確かにこの状景を詩にしたためるためには、この状景を見ていなくてはならない。だが、この状景は毒の香りを伴うのだ。


「……そうなるね。でも」


 彼女は魔術師を見た。


「君と僕は、いま平気でいるじゃないか」


その通りアレイス。となれば作り手は魔術師であったか、さもなくば」


 男は大きく片頬を歪める。


「魔物」

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