03 何をしにきた

「そんなことを言ったんじゃ、ないよ」


 ようよう、クラーナは言った。オルエンは鼻を鳴らす。


「くだらん意地を張って、私があのまま踵を返したらどうするつもりだった?」


「……どうもこうも」


 クラーナは呟くように言った。


「何か考えてる暇なんかなかったね」


 その返答にオルエンは笑った。


「よかろう。依頼の言葉はなかったが、かまわん。何しろ」


 にやりとして、魔術師はクラーナに手を差し伸べた。


「美女を助けるのは、男の務めだ」


 その台詞に、クラーナは嫌そうな視線をオルエンに向けた。


「……誰が、美女」


「鏡を見たことはないのか?『うまそうだ』も道理と言うもの。なかなか美しいぞ、クラーナ嬢セリ・クラーナ


「驚かないのはいいけどね! そんなこと言われても嬉しくないよ!」


 悲鳴のような声を上げた吟遊詩人は、クラーナ・アトアールでありながら、そうではなかった。彼を知る者があれば、おそらくは彼の姉妹だろうと推察するに違いない。


 少し色の抜けた髪は、月の光にきらめいて見える。もともと優しい顔立ちをしているが、いまはそれにも増して、明らかに線が細い。肩幅は細く身長も低くなっているため、身につけている衣服は、成長期の子供に親が無精して大きいものを与えたかのようにだぶだぶだった。そうなると身体の線は判りづらいが、誰が見てもそれは女である。


「叫ぶなと言うに。男のときより、美声ではないか」


 確かに、その喉から出てくる声もまた、明らかに高かった。クラーナは嘆息する。


「それも嬉しくない。と言うか、詩人として複雑だ」


 これは、リ・ガンに与えられたもうひとつの姿。この姿でいるときの彼、いや、彼女は魔力に似た力を使える。〈女王〉とリ・ガンの繋がりが強まるのだ。慣れてくれば――別に、慣れたくないが――どちらの姿でも、ちょっとした魔術師のように振る舞えることだろう。


 この姿の顕現が、クラーナに「夢のお告げ」を信じさせた。


 リ・ガン。翡翠。それらは、空想好きの詩人に芸神エレートが触れていったのではなく、現実なのだと。


 仰天というより、困惑をした。その姿を知人に見られるようなことがあれば、どうなるだろうと思ったのだ。


 そのようなことがあれば、実は姉妹がいるのだなどと言い訳をするしかないだろう、などと考えていた。ただ、一緒に旅をすることになればオルエンには隠せまい。いずれ機会を見て話をしなければとは思っていたが、急の事態にそのような「機会」を待つことを投げ捨てたのだ。


 しかし、驚かれもしないのは――こっちの方が驚く。


 魔術師というのは、これくらいのことは何とも思わないのだろうか?


 そうかもしれない。何しろ「人間ではない」と最初から言ってきたくらいなのだ。


「その姿の方が儲かるぞ」


 あっさりとそんなことを言うオルエンは、クラーナに手を差し出したままだった。普段よりも、やはり明らかに華奢な身体をした吟遊詩人は、もう一度深い嘆息をしてその手を取ろうとする。「女性にするような」態度で接してくることが気に入らなくもあったが、実際、手を借りなければ立ち上がることもできない。


 骨張った魔術師の手に、詩人の、普段よりも細い指が触れた。


 その瞬間である。


 クラーナは、びくりと身体を震わせた。オルエンも驚いたように目を見開いている。


 この一リア、クラーナを――おそらくはオルエンをも駆け抜けた鋭く、強烈な感覚。


 まるで、ガラサーンに打たれたかのような。


 全身に痺れが走る。


 そうではない。肉体にではない。


 精神、心、魂、何と言おうとかまわない。彼らの全ての、いちばん深いところへ。


(これは――)


(何だ?)


(いや)


(判る……判ったアリシャス!)


 繰り返し見て疑わぬようになった夢の宣託ですら、この衝撃に比べれば曖昧すぎた。初めてオルエンを目にしたときの確信でさえ、朝靄のなかの景色のよう。


 


 〈鍵〉は、リ・ガンの舵。〈変異〉の年の一年間、リ・ガンの意志を左右できる存在。


 「納得がいかない」と感じていたものは吹き飛んでいた。なのだ。それ以外の、何ものでも、ないのだ。


 頭で理解していたことがいま、心で、全身で、魂で、理解された。


 どこか抱いていた疑念が一瞬で氷解した。すとんと腑に落ちた。サンサータの実から作られた甘酸っぱい飲み物を飲み干したように、さあっと喉を通って腹の底まで。


 彼らはいま、繋がり、結ばれた。触れ合った手と手。〈変異〉の年に向けて、決して壊れることのない不可思議な運命の鎖が、互いに触れ合ったこと、その生命を感じ合ったことで、はっきりと形を為した。


 定めの輪。翡翠色をした美しい幻の輪が、そのひと時、クラーナの心に浮かんだ。


 何という力。何という繋がり。リ・ガンたる存在は、これほども強く〈鍵〉と結び合わされる。


 オルエンも同じことを感じているのだろうか? それとも、違う何かを?


 沈黙が下りた。風が流れる。月の女神ヴィリア・ルーは静かに彼らを照らし続けていた。


 ふとクラーナは、全身の震えがぴたりととまっていることに気づいた。


「……いま」


 沈黙を破ることを怖れるように、クラーナはそっと声を出した。


「何だ」


「魔術を使ったかい?」


「何も」


 実に簡潔にオルエンは答えた。


「いまの波動に比すれば、奪われる以前の力を振るったとて、児戯」


 オルエンがまだ見ぬ〈翡翠の女王〉にどれほどの強さを覚えたものか、彼の魔力や生まれをいまだ知らぬクラーナには少しも判らなかった。ただ、詩人は首を振る。


「それの……いまの雷みたいな衝撃のことじゃないよ。でも……同じことか」


「何がだ」


「……何でもない」


 クラーナはまた嘆息した。


 先に感じていた恐怖が、きれいに消え去った。


 では、これは証明。〈鍵〉はリ・ガンに力を与える。こんなにも、はっきりと。


 ――理不尽だ、との思いは、しかし、やはりまだ、あったが。


「成程な」


 何に納得したものか、オルエンはそう呟いた。


「ひとである以上は決してたどり着けぬ、果てよりも遠い場所、か」


「……オルエン?」


 相棒の声音にこれまで聞いたことのなかったものを耳にして、クラーナは魔術師を呼んだ。何でもないとばかりにオルエンは手を振り、クラーナはそっと考えた。


(いまのは、何だろう)


(感動?)


(違うな)


(――感慨)


 だがそれが何に対する感慨であるのか、クラーナには見当もつかなかった。


「しかし」


 感じた何かを振り払うように、オルエンは呆れた声を出した。


「お前はいったい、何をしにきたのだ」


「何って」


 不意に通常の世界が帰ってきた。そんなふうに感じてクラーナは瞬きをする。


「その美しい姿を見せるために私を追いかけてきた訳でもあるまいに」


「当たり前だろう!」


 そんな訳があるか、とクラーナは憤然と叫んだ。


「ゴオトルのおかげで眠気が吹き飛んどるようだな。だが、あまりこれを吸うな。目覚めさせる薬を作るのに三日はかかる。その前に、永眠だ」


 オルエンは何だか矛盾するような説明を寄越した。クラーナは彼を睨む。


「息をするなって言うのかい」


「戻れと言っている」


「そうはいかないよ! 僕は、コトを」


「コト? ああ、あの子供か」


「やっぱり君を追ったのか。どこにいるの? まさか――」


「眠っとる」


「眠っ……」


 その返答に、クラーナの手足から血の気が引いた。間に合わなかったと、言うのか――?


「誤解をするな。私の術で眠っとるだけだ。クリエランの香りは吸っておらん」


 さらりと魔術師は言ってくれる。クラーナは脱力をした。〈鍵〉の存在は彼、いや、彼女に力を与えるが、厄介な魔術師とのやり取りはまた別の話であるようだ。

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