02 見たい顔でもない
(死なない。僕は)
(僕には、使命がある)
それは翌年の〈変異〉の年に定められた、リ・ガンという存在としての役割のことでもあり、少年の不在を確認するという当面の目的のことでもあった。
そう、詩人は詩人であって魔術師ではないから、予言はできない。
それでも、クラーナの思いは予言同様であった。
クラーナ・アトアールには、使命がある。
だが詩人はいまだそれを知らず、ただ両手を痛いほどに握りしめて、ほんのりと漂い出した甘い香りに抵抗をしていた。
「オルエ」
「ああ、オルエン。よかった、もしかしたらコトが君を追って――」
早口で言いかけた吟遊詩人は、しかしそこで言葉を切る。
オルエンでは、ない。
細身の若者よりもそれはがっちりとした姿で、いつも無駄のない所作の魔術師と違い、のそのそとして見えた。
クラーナの背後にある満月が照らすその顔は、それこそ、明らかに人間ではなかった。
詩人は声にならない悲鳴を上げた。
人の身体に、獣のような顔。話に聞いたことのある獣人という単語はこのときの詩人の頭に浮かばなかった。頭のなかは、真っ白になっていた。
獣のように唸る声が聞こえる。それはのそのそと、クラーナに向かってきた。
足がすくむ。がくがくと震える。
これは、何だ?
のっそりとした動きで、それは確実にクラーナの方へと近寄ってきた。これが何であるのか判らないまでも、本能は「逃げろ」と命じていた。
なのに、足が動かない。
クラーナは、見たことのない獣――
「う、う、うまそうだ」
獣の口から聞き取りにくい、それでも確かに人間の言葉が発せられた。
「ね、ねむれ。く、食う」
ぐぐぐぐ、と唸るような音を立てながら、獣人はクラーナの細い腕を掴んだ。そうされたことでようやく、固まっていた身体が解ける。
それと同時に、耳にした言葉の意味に、ぞっとした。甘い香りに誘われ、眠りに落ちたら、毒で永眠する前に――これに、食われる?
「放せ!」
叫んで腕を振り払おうとするものの、剛毛の生えたそれの手はぎっちりとクラーナの細腕を掴んでいた。人間の手と同じ形をしていることが、この上なく気味悪かった。
「はなに、よれ。ねむ、れ」
何とも不気味な低い声音で、獣人はぼそぼそと呟いた。
(冗談じゃ、ない!)
クラーナは全身の力を振り絞って抵抗をした。だが獣人はそんな脆弱な力をものともせず、掴んだ腕をそのまま引き寄せ、その身体ごと持ち上げてしまう。
獣臭さがむんと臭った。
もう少し余裕があれば、この臭いを嗅いでいれば甘い香りも判らないな、などと思うかもしれなかったが、そんな皮肉も考えていられない。身体がすくみ、心がすくみ、嫌悪と恐怖に支配されていた。
「つれ、てく」
獣の口が言った。
臭い。怖ろしい。冗談じゃない。逃げなければ。
だが、どうやって?
ぐるぐると、クラーナの頭は回る。
(逃げなけりゃ)
(でも、どうすればいい?)
(――どうすれば!)
詩人は、恐慌状態に陥っていた。
「うま、うまそう、だ」
獣人が繰り返した。
その、次の瞬間である。
「確かにな」
返答をするように、面白かるような声がした。
「ごきげんよう、詩人殿……だな?」
クラーナは目を見開いた。獣人に張り付かれて姿は見えないが、この声は間違いない。いや、見えなかろうと聞こえなかろうと――判るのだ。理不尽だが。
「それで、お前はいったい、こんなところで何をしとる」
「ななな何って」
クラーナは混乱した頭で叫んだ。
「遊んでるように見えるのかい!? これが君の友だちなら、何とかしてくれ! 違うなら、魔術師でもそうじゃなくても何でもいいから、何とかしてくれよっ」
結局同じことを言って、クラーナは獣から逃れようと身体をよじった。だが、獣人はやはり獲物を放しはしない。
「も、もうひとりか」
それは振り返ったようだった。
「あ、あ、あまり、うまそうじゃ、ない」
「けっこうだ」
オルエンはふんと鼻を鳴らした。
「ジャファラールを見るために足を運んどると言うのに、現れたのははぐれゴオトルか。面白くもない」
「面白かないよっ、それにはものすごく同意する! 僕はねっ、毒の香りと戦う決意はしてたけど、こんなのにとっ捕まって食われる覚悟なんかしてないんだ。早くどうにか」
「うるさい」
魔術師は言った。
「こういうときは、『助けてください』と言うんだ。知らんのか」
オルエンは実に淡々と言った。勝ち誇った声音でもあれば、むしろ可愛気があると言うものだ。クラーナは頭に血が上るのを感じる。
「冗談じゃない。君にそんなことを言うもんか!」
「では、食われるか?」
「それだって、冗談じゃないよ!」
「裏声で叫ぶな。美声が台無しだ」
オルエンがそう言った瞬間、クラーナは獣人の腕から力が抜けるのを感じた。解放された、と思う間もなく、どさりと地面に落ちるとそのまま尻餅をついた。オルエンが何かしたのだ、と考えるより早く立ってその場を離れようと――したかったが、情けなくも全身は震えたままで、主の言うことを聞いてくれなかった。
「う、う、あ」
獣が唸る。
「去れ、ゴオトル。
面倒臭そうに魔術師が手を振った。すると次の瞬間には、何とも実にあっさりと、そのはぐれゴオトルは去った。
いや、消えた。
文字通り。かき消えた。
魔術。
その言葉がクラーナの頭に浮かぶまで長くはかからない。だが、詩人は判らなかった。これまでに目の当たりにした魔術師の技は、ちょっとした
こんなふうに、光も音も何もないと言うのは、却って判りにくかった。
クラーナは何度も目をしばたたき、もう獣人がいないことをどうにか理解する。オルエンは唇を歪めた。
「このような厄介な術をこんなビナレスの真ん中で使いたくはないのだぞ。まさかいまでも律儀に追ってきてるとは思わんが、目立つ真似は避けたいと言うに」
黒ローブを着ていない魔術師は何やらぶつぶつと言った。その言葉は、クラーナの頭まで届かない。
「どうした。獣人を見たのは初めてか。山に近い森林地帯には、たまに出る。あまり街道や町の近くまで出てくることはないが、人語を解していたところを見るとあれは人里の近くにでも暮らしておったか」
言いながらオルエンはクラーナの近くまで歩いてきた。
「いまの」
クラーナは声を震わせまいと咳払いをした。
「どこへやったの」
「どこでもよかろう」
「そりゃ、いいけど」
「どこぞで悪さを働かせるのも問題だからな、群れに帰してやった」
「……帰した」
「もともとの群れであるかまでは知らんが、知性が低いように見えても最低限の社会性を持つ。どうとでもするだろう……何だ、不満か」
オルエンは肩をすくめた。
「殺せばよかったと? それは簡単だが、いささか乱暴だ。あれは腹を空かせ、飯を食いたかっただけなのだからな」
何とも驚くべきことに、魔術師はそう答えた。驚きなのはこの場合、説明があったことと、犠牲者が出ないように計らったらしいことと、相手が化け物であれ殺すのは乱暴という感覚、かつ、その飯が人間であることには頓着していない発言内容、それらの全てである。
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