第3章
01 できることはそれしか
自分には、毒は効かない。
クラーナは自分に言い聞かせるように繰り返した。
当然と言おうか、デンはそのようなクラーナの言葉に納得はしなかった。それどころか、老人自身が森へ出向いて孫の無事を確かめたいと思っていることに疑いの余地がなかった。
しかし彼はほとんど家から出ない――出られないほどに身体を弱らせている。デンは全く根拠のないクラーナの言葉に一縷の望みを託し、深く頭を下げて孫の捜索を頼み込むしかない。そしてクラーナもそれを知っていた。
無論、頭など下げられずとも、その可能性に思い当たった瞬間からクラーナはコトを探しに行くつもりでいた。
自分の責任だ。もしも本当に、そのようなことがあれば。
『誰を心配してるの』
『……かあさん』
小さく呟いた男の子。
オルエンのことを「悪い魔法使い」だと思えば――よりによってこの夜に問題の森へ向かうなど、そう思われたって仕方がない!――あの子は、小さな身体に隠された小さな勇気を振り絞って、魔術師を追いかけるのではないか。
そうでなければいい。
だが、コトが「森にいない」ことが確信できない限り、クラーナは呑気に広場で歌うことなどできない。時間に余裕があるならまず広場で探してみるのが正しかろうが、いまや一秒を争うのだ。
彼は静かな町を西へ向かって駆けた。
町の門は閉ざされているだろうが、失敬して勝手に鍵を開けさせてもらうとしよう。いや、オルエンやコトが出向いたのならば開いているだろうか。
(それとも)
(オルエンは魔術で飛んでったかな?)
ふと思いつくと、彼は足を緩めた。そうであれば、コトは魔術師を追えない。
だがすぐに思い出した。魔術師は、足で赴ける場所には歩いていくというようなことを言っていた。森は近い。ならば、歩いていった可能性も高い。再び、青年は足を速める。
しかし門が目に入ると、彼はまた歩調を弱めざるを得なかった。
(誰かいる)
門番だ。意外に思った。こうした田舎町では、滅多なことでは夜通しの番など置かないはずだ。
(――そうか)
(祭りだからこそ)
余所からも人がやってくるのだ。今宵、サルフェンの家々が空になるというような話をどこかの
もっとも、大きな街のように立派な石壁がある訳でもない。サルフェンを囲うのは粗末な木の柵だし、門も古びた木製だ。
だが、集団でもなければ賊でもないひとりの詩人にとって、これは難関だった。
(どうしよう)
(何か気を逸らして)
(……待てよ)
クラーナははたと思った。
(侵入者を防ぐ目的で立っていても、誰かが外に出ようとすれば当然、門番はとめるはずだ)
(つまり、門番がいれば、外へは出られない)
オルエンには可能だろう。こうなると町の外は「足で赴けない場所」になるから、ひょいと魔術を使えばいい。
(――やっぱり杞憂、だったかな)
(コトは、追いかけたくても追いかけられなかったかも)
(……話を聞いてみようか)
彼はそう思った。コト少年を見かけなかったかと尋ね、戻ったようだと教われば安心できる。もちろん、返答は「誰ひとり見かけていない」でもいい。
クラーナは気軽なふうを装って、門番の方に歩いていった。手を上げて害意のないことを示す。
「こんばんは、
言うなれば「営業用」の、偏屈な酒場の主人でも仕事の手をとめてしまうような、最高級の愛想のよさで声を発した詩人は、それが無駄な努力だったことを知る。
門番が警戒を怠ることなく、さっと彼に向けて剣を抜いた――というようなことでは、ない。
吟遊詩人はその場で、彼が知るありとあらゆる呪い文句を盛大に吐いた。
仕事に飽きて座り込んでいると見えた男は、ぐっすりと深い眠りについているようである。
「オルエンの大馬鹿野郎!」
魔術師の仕業であることは〈真夏の
「砂漠からやってくるみたいに、ぱっと飛んでいけばいいじゃないか!」
静かな夜にいきなり怒鳴っても門番が目を覚ます気配はない。クラーナは憤りに任せて門を押した。鍵は案の定、外れている。
さっと一歩を踏み出せば、そこはもう、今宵、出てはならない「外」。
彼はその禁忌を破ったことになる。だが、それを禁じる法がある訳でもなければ、彼はサルフェンの人間でもない。怖れに身をすくませることもなかった。よくも悪くも、ということになるかもしれないが。
クラーナは唇を結び、西方を見た。
道路がわざわざ作られていることはなかったが、普段は人々が気軽に木の実や薬草を取りに行くという話であった。つまり、踏み固められたことで結果的にできた道がある。
これは判りやすい。いちいちこれを外れて森へ向かうなどは、いくらオルエンがへそ曲がりでもやらないだろうし、コトも同様だろう。この道をそのまま進めばいい。
満月は明るく、町の外を照らす。
中枢を除いて静まりかえったサルフェンよりも、景色ははつらつとして見えた。詩人は、昨夜に覚えた夜の魔力を思い出す。
だがこの夜、あの森に施されるのは不吉な装いだ。
毒の花。甘い香り。眠りに誘われるのだとオルエンは言った。
(僕には、毒は効かないんです)
自身の言葉が心に蘇った。もちろん、確信などない。あれはオルエンの、ちょっとした冗談以上のものではない。
実際、自分が「人間ではない」という感覚など、はっきりとは持っていない。どうやら尋常ではない、とは思うものの、時間が経てば腹は減るし、歌いすぎれば声を涸らす。先の少女たちにはともかく、色気のあるご婦人に声をかけられれば興奮もするし、夜になれば――いまはまだ――眠気も催す。
ただ、明らかに異なる点がひとつだけ。
こんなことができるなら確かに自分は人間ではなさそうだと、そんなふうに彼に思わせることが、ひとつだけある。
クラーナはそのことに意識を向けた。
躊躇いはあったが、そんなものは一
かの宮殿の女神、オルエンの言うところの〈翡翠の女王〉は、クラーナに死なれては困るはずだ。近しくなれば、力を貸してもらえるかもしれない。
いささか他力本願とも言える。だが、彼にできることはそれしかなかった。
瞳を閉じると、すうっと深呼吸をして、再び目を開けた。
きゅっと薄い唇を結んで、地面を蹴る。
「――オルエン!」
クラーナは呼んだ。
「コト!」
少年の気配は感じられない。だが、オルエンがこの先にいることは間違いなかった。
理不尽だ。しかし、判るのだ。
リ・ガンがその〈鍵〉の存在を見失うことなどない。
「オルエン!」
繰り返し、クラーナは魔術師を呼んだ。きっと聞こえているはずだ。この声を遮る騒音などないのだから。
ふわりと、西から風が吹いた。
その内に甘い香りが含まれていたようで、詩人はぎくりとする。
(強烈な眠気を誘発する)
きゅっとクラーナは拳を握る。
(耐えろ。大丈夫)
(大丈夫だ、僕は)
(――こんなところでは、死なない)
詩人は詩人で、魔術師ではない。
判っている。馬鹿な真似をしているかもしれないこと。少年は無事に祭りの輪にいるのかもしれないし、予想、いや、期待が裏切られて毒がやはり「人外」にも効けば、クラーナは意味もなく命を落とすことになる。
しかし、それでも。
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